憲法の日だった。各地では憲法をめぐる集会が活発に行われたそうだ。共同通信が「憲法の議論が活発だった」と書いている。だが、この議論とは何だろうか?と思った。下村博文政調会長の発言である。強い違和感と歪んだ心情を感じた。
下村政調会長は「日本は今、国難だ。コロナのピンチを逆にチャンスに変えるべきだ」と言ったそうだ。普通の人が議論をする時には「ああ、これは言っちゃいけないなあ」という一線がある。だが下村さんはこの線を軽々と超えて見せた。倫理観がぶっこわれているのだろう。
病気が流行って人々が慌てている今がチャンスだと言っている。人として終わっているなという気がするのだが、おそらくは仲間内の高揚感に包まれてこういう発言になったのではないかと思う。
この発言は実はかなり罪深い。
- コロナはピンチだがそれは医療従事者のピンチだからボクたちは関係がない。ボクたちは大所高所から国の形について語るんだ。エラいボクたちにとってはこれはチャンスなんじゃないか?
- 現行憲法は70年以上改正されず、時代の変化に対応できていない。時代の変化に対応しているのはボクたちだ。
こういう人たちが国の形を議論するというのが今の憲法改正のあり方だ。不甲斐ない野党もこれを許している。彼らは足元がまとまらないので建設的な憲法改正論に参加できない。野党の中にも議論に参加している人がいるではないかとの反論もあろうが、交通費を私的流用して大した反省もしていない人もいる。なおたちが悪い。
ただこのマインドセットは安倍前総理と通底している。とにかく面倒なことを「雑事」と捉えやりたがらない。そして強くてすごい国の「ボクたち」という姿を無双し続けている。
菅総理大臣は安倍総理に比べて憲法改正議論に消極的と言われる。よく言えば実務派なので国の形にはあまり興味がなさそうだ。憲法改正派の集会に出ているところを見たが「目が死んでいる」という印象があった。菅総理のやり方には問題が多いが国民のための仕事をしているのは現政権の方だ。だが、こちらは使用人扱いで時々保守派にご挨拶にいっておべんちゃらを言わなければならない。
雑事であるコロナ対策を菅総理に押し付けることに成功した安倍前総理大臣は「菅総理のままでいい」と言っているそうだ。ご本人曰く「良い薬ができたから」元気になったそうだ。だがこの人の説明にはよく便利な新薬が出てくるが、効いたのは薬ではなく精神的ストレスからの解放だろう。嫌なことがあるとすぐに病気になる。
下村博文さんの経歴を見てみた。若くして父親がなくなり苦労して早稲田大学を出た。そこで塾を立ち上げたのだそうだ。そのあと東京で政治家になった。世襲ではないんだなと思った。
東京都議会では厚生文教委員会委員を長く務めたのだそうだ。1990年代当初の都政といえばまだ教育機関に「進歩的な」革新勢力の残滓が残っていたのではないかと思う。
おそらく公教育に対する蔑視感情を強めて言ったのではないかと思う。最近では公立学校を独立行政法人にしろと訴えているそうだ。小泉政権時代の郵政民営化改革などに影響を受けているようだが「公立小学校中学校の運営は甘えている」という偏った意識があるようである。
とにかく日本の政治家は自分たちの行動に甘く不具合をすぐに人のせいにしたがる。この人は若い時の経験から「公立学校は甘えている」と感じているのだろうし、憲法があるからコロナ対策ができないと言い訳する大臣もいる。
こうした人たちは自己研鑽してマネージメント能力を磨くことはしない。代わりに劣等意識からは逃げ出し「国家観」という大きな物語に身を委ねる。最近はやりの「転生もの」漫画とあまり変わらない精神世界を生きているのである。
現実にコロナ対策をしている総理大臣は彼らに頭を下げて支持を願う。やはりこの国の政治は根本から間違っているのではないかと感じる。