「あれ、なんか自分の感覚がおかしくなってしまったのかな」と思っている。政府が提出する法律案にミスが次々と見つかり審議拒否かなどと言われていた。おそらくマスコミも含めて大騒ぎになるだろうと思ったのだが誰も騒ぎ出さない。翌日になってNHKは国会中継の枠が空いているのを見つけた。何事もなかったかのように国会審議が進んでいるようだ。結局審議は行われ型通りに政府批判が進み総理大臣は謝りはしたものの法律審議プロセスをリスケしなかった。
煙が吹いている車にみんなで乗ってその上でわいわい騒いでいるような感じだが、これで本当に大丈夫なのだろうか?と思った。
いや、大丈夫ではないだろう。まずは路肩に止めてボンネットを開けたほうがいい。
安倍政権が官邸主導のもとに閣僚人事を押さえてから、統計のごまかしや隠蔽などが横行するようになった。役人の記憶が次々となくなるが、官邸が守りきれなくなると見ると首を切られる。中には裁判にかけられる人も出ていている。政治家にも訴えられる人、汚職容疑で捕まる人、公職選挙法違反で捕まる人などがでてきている。でも誰も責任は感じていないようだ。二階幹事長は「他山の石」と嘯(うそぶ)く。
政府はマスクも配れないし10万円の給付も満足にできない、飲食店への支援金も滞るなど地方でも色々起きているようだ。都道府県と連携した行政サービスがうまく機能していないのだが地方としては「国が色々ドタバタしてますからねえ」で終わりになってしまう。
ITでも問題が起きている。接触確認アプリCOCOAもOSのアップデートに対応できず、マイナンバーカードと保険証の結びつけテストも期日通りに進められなかったそうだ。たった50件の病院もまとめられなかったのだという。ついに法律の文章や条約の訳語まで間違いが見つかりまともに審議できない状態になっている。
明らかに霞ヶ関は疲れている。「助けてくださいもう動けません」と言っているのに、誰もそれを直視しない。
政府は「法律の間違いがなぜ起こったのか確認して報告します」ということにならず、野党に総理大臣の追求をやらせてあげるから金曜日までに予算を通してくださいとお願いしたようである。与党はとにかく体裁が整えばいいと考えていて野党も総理大臣が追求できさえすれば良いと考えているのかもしれない。
立憲民主党の福山さんが「法律案が整うまで待ってくださいというのは行政府の責任では?」と総理に詰め寄ったが総理大臣から明確な答弁はなかった。責任感がないというより全体が把握できていない様子がわかる。ここで下手に謝罪してもどれくらいで審議再開ができるかの見通しが立てられないのだろう。だが野党も審議拒否というレッテルを恐れているようだ。
いや、気にするのはそこじゃないですよ、と言いたい。まずは点検してほしい。霞ヶ関が壊れかけていないかを……
「審議前の検討段階では間違いを含んだ法律ですが、法律は法律なので守ってください」と国会に言われているようなものである。「はいそうですか」と守る人がどれくらいいるのだろうかと思えてしまう。実際にすでに通った法案にもミスがあったそうである。
冷静に記事を読むと、リモートワークにうまく対応できていないということがわかる。
ただ、役所側にも事情があるようだ。内閣府職員は「コロナ対応のため職場の人数が少ない中で読み合わせをしなければいけなかった。リモートではやりにくい」と漏らす。立憲の蓮舫代表代行は会見で、働き方改革にも触れつつ「労働環境が相当過酷になっているのではないか」と指摘した。
法案・条約ミス、20本に拡大 コロナで疲弊か、野党審議拒否も
なんだそんなことかと思える。であれば余裕のあるスケジュールを与えればいいと思う。でもそれができないのが菅政権と今の国会なのである。
もう一つ驚いたのが「どの法律案に間違いがありそれが承認されないとどんな影響があるのか」ということを誰も伝えないというところだ。先回りして考える力がマスメディアからなくなっているようである。
例えばデジタル庁が成立しなくても国民はたいして困らないだろう。どっちみち今の政府にITは扱えないのだし集約したからといって扱えるようにはならないだろう。
もう一つ産業競争力強化法等の一部を改正する等の法律案という法案がある。グリーン社会とデジタル化のための法律だが、訪米のためのお土産にしようとしたんだろうなと思える。であれば我々にはあまり関係がなさそうだ。どうせ菅総理からバイデン 大統領への単なるお土産である。
だが、20も法律案があるというわけだから我々の暮らしに本当に影響があるものが含まれていないとは言えない。例えば銀行法の改正案がある。日経新聞によると地方経済が疲弊するなか再編を後押しする内容になっているそうだ。これなんか本当に今通さなくて良いものなのだろうかと思ってしまう。
官僚は機械ではないのだから無理な環境で働かせ続ければ壊れてしまう。逆にいえば「みんなで間違えれば怖くない」ということだったのかもしれない。一人が声を上げれば責任問題になる。だから、壊れて見せなければ誰もこの異常な事態そのものに気がつかなかったであろう。霞ヶ関は今かなり思いつめた状態になっているのかもしれない。