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CM界の天皇とバベルの塔

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前回、佐々木宏さんの件について「プロデューサシップが軽んじられたのではないか」という文章を書いた。プロデューサシップとは佐々木さんの意味でもありチームの意味でもあった。

そのあとで週刊文春の記事を読んだので訂正をしておきたいと思う。基本路線は変わらないのだが、少なくとも佐々木さんはかき回す側の人間であり現場をまとめるつもりはなかったようだ。幼稚な人格でとてもリーダーとは呼べない。だがそれよりも痛感したのは日本の旧態依然としたムラ・クリエイティブ事情である。

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まず、週刊文春の記事についておさらいする。

2020年1月に「オリパラ開閉会式の演出担当辞任 電通がパワハラで懲戒」という記事がある。電通の菅野薫さんの辞任が全てのきっかけになっている。

もともと開会式・閉会式は寄せ集めチームだった。組織委員会側が用意した4人と森喜朗会長が安倍マリオの成功に気を良くしてごり押しした4名の寄せ集めチームになっていた。週刊文春の記事によるととにかく夢想的でまとまりがないチームだったようだ。

菅野さんがやめたことで誰もまとめる人がいなくなり、2020年12月には野村チームが解散させられた。野村さんにもプロデューサシップはなかったのである。週刊文春は野村萬斎さんを「観念的で具体策のない夢想家」のように書いている。つまりあまりチームをまとめる気が無かったようだ。

実際にアイディアの基礎を作ったのはMIKIKOさんという振付師のようだ。つまり実際にチームをまとめてものを作れる人はいた。だがそこから佐々木宏さんのいじめが始まる。精神的に追い詰めていったようでMIKIKOさんが排除されたという記事がハフィントンポストに残っている。週刊文春の記事では障害者の栗栖さんも「ただそこに座らされているだけで利用されていた」というようなことが書かれている。

チームは適切なスーパバイズなしに佐々木さんに私物化されていったのである。週刊文春はMIKIKOさんのアイディアを佐々木さんが切りはりして利用するようになったと書かれているのだが佐々木さんはそれを否定している。

おそらくCMの世界ではこうした剽窃は当たり前のことだったのだろう。むしろ他人のアイディアを盗み蹴落とせる人の方が成功できたのかもしれないテレビ利権を独占することによって長年テレビのクリエイティブ界を支配してきた電通のもとで育まれたわがままでリーダーシップのないクリエイターがお気に入りだけを集めて他人の外見を面白おかしく笑いのめすようなアイディアを披瀝するというのは聞いているだけでも寒気がする光景だが、実際に広く蔓延しているのではないだろうか。

おそらく世界レベルのエンターティンメントに触れているクリエイターたちもチームにはいたのだろうが最終的に嫌になったり追い詰められたりしていなくなってしまった。これが今回の真相のようだ。

今回の件では「女性や障害者も含んだ包摂性」などということが盛んに議論された。だが実際には、狭いCMという世界で王様を気取るクリエイターが自分のわがままでチームを振り回すというようなことが行われていただけだったということになる。とても包摂性の議論などできない。それ以前の問題だからである。CMという村の論理で国家的なプロジェクトを回そうとしたのだ。

ただ「ああ恥ずかしい」などといっていても話は前に進まない。どうしたらよかったのだろうかということを考えた。

例えばアメリカ合衆国ではジャーナリズムやクリエイティブデザインを学校で教える。実業で成功した人が教授として学校に戻りこれから業界で働きたい人を教える学校がある。こうした学校である程度、チーム内で制作プロセスが共通化される。

また経営者の方もマーケティングコミュニケーションやITといった非専門分野について一通り勉強する。いわゆる経営修士(MBA)というコースだ。

アメリカでは学術と実業が交流することで広い知識を身につけてゆく。おそらく企業内教育に頼りすぎた日本では知識の陳腐化が起こり複雑なものをまとめきれなくなっているのだろうと思う。記者クラブ依存のジャーナリズムが劣化しているのと同じ構図だ。

ではなぜそんな日本であらゆる協業が崩壊しないのか。かろうじてそれをまとめている人がいる。つまり属人的管理に依存してなんとかやってきているのである。

伝統芸能の野村萬斎さんにこうしたクリエイティブプロセスの統括を求めるのは無茶というものだろう。おそらくそれを担っていたのは、クリエイティブディレクターの「パワハラ」菅野薫さんだったのだと思う。菅野さんはそれなりに機能していたのだがパワハラで粛清された。だが、菅野さんのスキルは菅野さん属人的なものだったので引き継がれることはなかった。

誰もまとめる人がいなくなったチームで起こったのがいじめである。ムラどころか中学校のレベルまで堕ちてしまったことになる。まるで稚拙な学園祭実行委員会の内情を見せられているようだが、これが国家レベルのイベントで行われていたという点に今回の異様さがある。そしてその内情がLINEのやりとりをきっかけに外に出てくるというのも中学生・高校生レベルだ。

厚生労働省もCOCOAアプリを開発できなくなっている。多重下請け構造がありOSのアップデートができなかったようだ。

最近、総務省で将来の事務次官候補が粛清されるという事態が起きた。こちらも総理大臣の長男を含む仲良しグループが他のグループに恨まれるというレベルの話である。ムラ化した官僚組織では法律文章のミスがチェックできないという事態に陥っている。野党がチェックした法案に次々とミスが見つかり3月18日に加藤官房長官が陳謝していたのだが、結局ミスはなくならなかった。スケジュールは詰まっているのだが野党はこれでも審議できないといっている。

こうして、日本人は急速にバベルの塔に閉じ込められていると実感するようになった。ある日突然複雑なものが組めなくなり建設中の複雑な都市に封じ込められたような感覚に陥っている。周りを見渡して会話を交わして見ても相手が言っていることが理解できないという恐怖がある。

日本人は違った人たちとのコミュニケーションを怠りお友達だけで集まることを好んできた。この結果多様性どころかちょっとした複雑さも扱えなくなり急速に劣化している。こうした混乱のほんの一端がリークされることによって炎上を引き起こす。だが炎上だけ見ていても問題は解決しないだろう。

今回のオリパラ開幕式閉幕式問題には日本の病理が詰め込まれていると言える。その象徴になっているのが問題を混乱させた森喜朗元会長とCM界のプチ天皇だった佐々木宏さんだったのかもしれない。

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