森会長の炎上が止まらない。このブログでも度々煽るようなことを書いてきたのだが、まさかここまで燃え広がるとは思わなかった。「問題がない」としていたIOCまでも「あの発言は間違いだった」と認める騒ぎになっている。
普段は煽り記事を書いている週刊誌だが、おそらくスポンサーの間に広がっている同様は本物であろう。東京都にも抗議の電話が入っているそうだ。あるいはこの機会に逃げたいというスポンサーやボランティアもいるのだろう。新型コロナは収束しそうにないのでこれまでの投資は無駄になる可能性が高い。
だが、それでもおじいさん達は日々この戦いに燃料を投下し続けていて、山下JOC会長や橋下五輪担当大臣が火消しに走っている。そして小池百合子東京都知事は「ポジティブな発信にならない」という謎の理由で逃亡した。
森発言の中でもっとも響いたのは「わきまえる」という上から目線の発言であろう。日本では女性は常にサブの立場をわきまえていることが重要とされてきた。これは抑圧という形ではなく「女はわきまえている方が幸せになれるのだ」という善意の形で降りてくる。「女性がわきまえた」としても褒められることはない。それが当然だとされるので様々なお世話係の立場を押し付けられる。そして「偉そうな濡れ落ち葉」のおじいさん達は平然と女性達にお世話を要求する。
経団連中西会長はへらへらと笑いながらこの話題についてコメントして週刊誌に書かれてしまった。おじいさん達は反省しない。だったら抗議運動だ・不買運動だということになる。普段押さえつけられていた不満がマグマのように噴出した。落ち葉は掃いてしまえというわけだ。
ではなぜおじいさん達は反省しないのか。
日本の男性がこうした「わきまえる立場」に置かれることは少ない。だからこの重苦しさがよくわからないのだろう。マイノリティ経験がないというのは恐ろしいことである。
例えば海外に出ると「あなたは白人ではないけど白人のように扱ってあげよう」と言われることがある。名誉白人というのはありがたいポジションではあるが「常にわきまえていなさいよ」という条件がつけられる。名誉白人のポジションは白人の胸先三寸でどうとでもなる。
名誉なんとかというのは意外と屈辱的で窮屈なポジションなのだが、一旦そこに足を踏み入れると自発的な隷属が要求される。日本で社会進出を果たした女性はすべてこの「名誉男性的な」ポジションを自動的に与えられて一掃の頑張りを期待されるのだが、これが男性には理解できないのだろう。
一方で集団主義社会に見られるような保護も得られにくくなっている。女性にあるべき役割を守ったとしてもかつてのような安心感は得られない。姑はあるべき女性像を押し付けてくるし「ワンオペ育児」というように女性が家庭で孤立しても社会や夫の援助は得られない。
このやり場のない怒りや憤りが一点に集中したのが森発言だということになるだろう。つまり社会に出ても家に止まっても女性はなんらかの苦労を強いられる。日本は集団主義でも個人主義でもない中途半端な状態にあるのが原因だ。
問題の本質はおそらく当事者の女性自身に「どちらにゆけばいいか」という明確なコンセンサスつまり正解がないなのだろう。個人主義社会で自分を説明するアサーティブさも身につけられず専業主婦もまた難しくなりつつある。正解が与えられればそれに沿ってうまくやってみせるのだろうが正解を自ら作り出すことはできない。
さらに付け加えるならば、今の日本人には「今の社会的枠組みが崩れてしまうのが怖い」という別の不安もある。
今回も「オリンピックを中止すべきだ」という意見には大した共感が集まらなかった。今ある路線が崩れることを恐れている人が多いからだ。自民党政権に不満がありつつも立憲民主党に支持が集まらないのも同じ不安の表れであろう。変えて良くなる保証があるわけではないので変えられないというわけである。
誰もが現実はまずいと思っている。だがどう変えればいいかわからないしそもそも変えられる自信もない。正解をコピーするのは得意だが正解が作れない。
これが森発言がいつまでも収まらない理由である。森さんさえいなくなれば現状を変えることなしに「抗議の意思を示すことができた」ということになり嫌なことを見なくて済むという事情があるのだ。
もう一つ、この問題を見ていて印象的だったのが男性の戸惑いである。Quoraには心情的に森さんを応援したいという人が多くいた。彼らは森さんの過去の神の国発言まで取り出して「これは切り取りだ」から森さんには問題がないと言っている。
問題の本質は周囲の空気を敏感に感じ取ることができず不適切な発言を行いその不適切な発言を修正できないというところにあるが、これを理解するためにはかなり複雑な情報処理が必要である。
まず世界の多様性問題について理解した上で、それを現代民主主義と人権の文脈から理解する必要がある。もちろん、この意見に賛成する必要はない。受け入れる・受け入れはしないが受け入れているふりをする・相手の論を理解した上で反論するという三つの態度があるだろうが、とにかく理解しないと始まらない。
さらに現在の女性が置かれている状況を理解する必要がある。個人主義を取るのであれば個人としての人格が認められなければならないし、集団主義を取るのであれば「自己責任社会」から解放する必要がある。つまり、女性を家に押し込める代わりに何不自由のない生活を認めて家の管理を女性に任せる必要がある。
こうした情報処理をした上で、それを言語化して誰かに発表しなければならない。
おそらく「あるファクト」を取り出してきて全ての問題に白黒はっきりさせようとする態度の裏には「そもそも情報処理も整理も言語化もできない」という問題があるのだろう。中西経団連会長が「笑いながら話した」ことからもわかるように小さな村社会の中を生きてきた日本人の男性は個人主義的で多様な空間でうまく情報発信ができない。おそらく彼らは多様性のある社会の実現を妨害しているのではなくそもそも理解する能力がないのである。