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菅総理に決定的に欠けている総理の資質とは何か?

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新型コロナ関連法案に刑事罰を入れようとした問題で野党が追及チームを作ったそうだ。「他にやることがあるのではないか?」と言う気がするが低支持率が定着した野党はもう打開策を考えられないんだろう。同時に何故こうなった?とも思った。菅総理には総理大臣の資質が欠けている。これが混乱を招いていることは間違いがないだろう。では具体的にリーダーの資質とは何なのか。考えてみた。

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法案の「上奏」過程はよくわかっていない。都道府県知事からの要請を受けて厚生労働省の官僚が作った法案の中にこうした文言が入っていたのだろう。あるいは厚生労働大臣の意見が入っていたのかもしれない。行政罰ではインパクトが弱すぎるから刑事罰にしろというわけである。

厚生労働省の幹部たちはおそらく現場とは遊離したところで法案を考えている。現場を知っている専門家たちが異議を唱えたことからもそれはよくわかる。異議を無視して「おおむね了承された」と通してしまった。

改めて指摘するまでもなく、失敗の責任を取らず成果を求めた陸軍大本営が現場を見ないで無茶な作戦を乱立した戦争末期に似ている。軍部の頭の中は自己保身でいっぱいだっただろうが今回もおそらく厚生労働省は「敗戦の責任」を取らされることを恐れている。

厚生労働省の官僚たちが現場感覚と遊離していると責めたいところだが、仕組み上は仕方がないことだ。彼らはエリートでありポジションも安定している。いわば「上級国民」である。同じようなことは旧陸軍の大本営にも言える。机上で「人を動かしている」うちに戦場が将棋かシミュレーションゲームのように思えてきてしまうのだ。

こうした構造上の欠陥があることを前提とすると、総理大臣の役割は「これが実行された場合どんなインパクトがあるのか?」を具体的に想像してみるところだろう。おそらく厚生労働省は大臣も含めて「上ばかり見て」仕事をしている。常識的な判断を下せるのはトップだけなのである。

昭和天皇が陸軍幹部に囲まれて傍観者化したのと同じように菅総理もまた「現場に任せている」ということで傍観者になってしまった。総理は共感能力を働かせた上で「これはまずいことになる」と止めるべきだった。共感型リーダーは専門家の暴走を止める役割を果たす。これはあるいは社長が消費者の代表となって商品開発に最後のジャッジをするのに似ているかもしれない。

ところがこれが世間から反発される。そこで修正協議が始まった。森山国対委員長はどういうわけか「総理大臣に判断をあおいだ」と言ってしまう。総理大臣は国会に対して法案を審議してもらう立場であり「国対委員長に指示する」などあり得ないことだ。国対委員長は議会制民主主義が理解できていない。

森山さんがなぜこんなことを言ったのかはよくわからない。総理の決断力を演出しようとしたのかもしれないし自らの取りまとめ役としての責任を総理大臣に押し付けたかったのかもしれない。いずれにせよ「責任は取りたくない」と言う気持ちが透けて見える。

総理大臣の答弁によると「森山さんにお任せします」と言ったそうだ。おそらく安倍総理の時代に安倍総理から言われていたことなのではないかと思った。総理大臣は細かいことは現場に任せる。同じことをやろうとしているが、現場には菅官房長官のような当事者意識がない。

皮肉なことだが、おそらく安倍政権もそうだったのだろう。安倍総理にも当事者意識はなかったがお神輿としての役割は果たしていた。さらに当事者意識を持ち細かいことを全て見ていた菅官房長官のおかげで他の人たちは「当事者意識を持たなくてもよくなっていた」可能性がある。

これがおそらく菅総理に欠けているもう一つの資質であろう。責任者にたいして「プロジェクトに対するオーナーシップを持たせる」必要がリーダーにはある。援助型リーダーである。では権限移譲するリーダーが援助型と呼ばれるのはなぜか。

オーナーシップを持たせるためには権限も移譲する必要がある。さらに足りないリソースは支援してやる必要がある。菅総理に援助ができないのは、おそらくこれまで全てを官邸で抱えた上で自分たちだけでいろいろ決めてきた弊害なのだろうと思う。部下は責任を取ろうにも全体像が見えないしリソースもない。責任感がある人はやめてしまうが、責任を取らない当事者意識のない人は「自分が責任を持たない」ことに違和感も罪悪感も感じない。結果的に当事者意識がでない人しか手元に残らないのだ。

こうして分析して見ると、一言で「リーダーシップ」と言っても実に様々な役割(帽子)があることがわかる。例えば共感型リーダーシップだったり援助型リーダーシップだったりする。こうした役割を客観的に学ぶためには座学としてのリーダーシップ論が必要だ。

残念ながら日本では「血筋の正しい世襲政治家」か「正しく処理をするマネージャー」か「忖度が上手なフォロワー」しか上に上がれない仕組みになっている。菅総理はリーダーシップなき日本が生み出した成れの果てなのかもしれない。

安倍政権時代の負の遺産が噴出し始めている。菅総理が自ら招いたこととはいえ、国民の命と生活がかかっていることを考えると、菅総理のリーダーシップのなさは著しく国益を損なっていると言えるだろう。

ただ残念なことに野党にリーダーシップがある人がいるのか?というのもいささか心もとない気がする。本来ならリーダーシップを発揮して困窮者を具体的に支援するスキームを立ち上げ援助を国民に求めるべきであろう。だが、国全体が国家予算頼みになっていて、支持者が政党を通じて必要なことをやるという体制にはなっておらずそのマインドセットもない。おそらく野党が支持を集める方法は簡単だ。現場を直接見て必要なものを自前で組織すればいいのだ。正しいと思ったことを躊躇なくやる。行動力もまたリーダーの資質である。

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