2021年最初のテーマは政治の儀式的側面である。英語ではリチュアルという。政治には問題解決や委託といった合理的な側面がある一方で「まつりごと」と呼ばれるような儀式的側面がある。
去年「民主主義において人権というのは嘘に過ぎない」ということをみてきた。その一方でそうした嘘がないと民主主義が成り立たないということも観察した。つまり、民主主義には嘘が含まれているにも関わらずそれを「あたかもあること」のように振る舞う場合がある。
一旦この前提を受け入れてしまえば政治は演劇のように構造観察することができる。人工物である虚構にはかならず構造があるので同じように観察できるのだ。
例えばアメリカでは「政治を退屈なものだ」と考えたメディアが大統領選挙を過剰に演出した。その結果として出てきたのがトランプ大統領である。トランプは「お話」を利用して内政を掌握することには成功したが敵を作り出しアメリカの世界的地位を毀損した。
また、共和党はこうした「お話」を真顔で信じ込む人たちに乗っ取られてしまったという観測もある。陰謀論を垂れ流すメディアも増えているそうだ。これは実利的な政治が「ごっこ」に乗っ取られてしまった例である。共和党はカントリークラブと呼ばれる一部のエリートたちがカントリー(おそらく田舎者という含みがある)を利用してきたのだが利用しているうちに乗っ取られてしまったと記事は書いている。
皮肉なことにトランプ大統領に政治の儀式性を利用しているという気持ちはなさそうだ。個人の私欲の純粋な追求が奇妙な神聖性を持ち本来の神聖さを毀損した。高度に虚構化した民主主義社会だからこそ起きたことであろう。
一方、フランスでは自由・平等・博愛というお話がありこれがフランス人をまとめきた。このお話を信じずに自分たちの神を信じるイスラム教徒との間に「表現の自由」を巡る争いがある。フランス人はイスラム教徒を社会的に排除し自分たちのお話の中に招き入れようとしなかった。イスラム教徒にとってみれば自由・平等・博愛というお話よりもアラーの神の方が魅力的なお話だ。民主主義社会ではお話は一つでなければ国がバラバラになってしまうということがわかる。
このお話の排他性が現在最も強いのが中国である。中国に中華民族・漢民族というありもしない「お話」があり、その統一言語である北京官話を共通言語にしようという目論見がある。これはウイグル人、モンゴル人などに波紋を広げている。
トルコには亡命ウイグル人が5万人もいるそうだ。中国というお話を信じず「トルコ民族性」を信じる人たちは中国では犯罪者だ。西側諸国ではお話は自分で選択するものなのだが中国共産党は信じないものを罰する。香港でも同じことが起きている。
おそらくこの異質さ故に中国が西側諸国と同盟することは難しいだろう。ついにドイツまでが中国を「異質な国」と呼ぶようになった。民主主義自体が一つのお話であり異質なものの存在を許容しない。政治が純粋に合理的なシステムであればそんなことは起こらない。
政治にお話・ごっこ・儀式というフィクショナルな側面が必要なのは人間が言語や見た目などで集団を作る傾向があるからだ。つまり「地縁血縁の集団主義」を超克するためにはみんなで信じられるお話を作るか外に敵を設定して気持ちを一つにする必要があるということだ。
この段階まで到達していない社会では土地や資源を巡り部族同士での争いが起きる。政情は常に不安定で難民が多く発生し、その一部は北米やヨーロッパを目指し、その地域にあるお話を破壊する。
ここまでのことがわかるとアメリカの逸脱の意味もわかる。アメリカは民族を元にした集団を復元したいがすでに十分に「お話」をもとにした儀式性国家になっている。このため民族主義が十分に発達せずにエンターティンメント性の強いトランプ大統領の陰謀論に吸着されてしまった。カリフォルニアなどの地域には別の問題があり官僚主義的に動きの遅い政府が環境や人権という新しい「お話」を推進する動きがあるそうだ。アメリカを一つにまとめていたお話が融解しつつある。当然向かう先は「アメリカ合衆国の分割」であろう。イデオロギーは虚構なのである。虚構だからこそ神聖なのだ。
ここまでは世界の例を見てきたが日本は自明の国境と民族性を持った国であって「お話などはなくても」政治がうまく動くのではないかと思う人もいるかもしれない。おそらく日本人はそうあってほしいと考えている。
だが本当にそうだろうか。そもそも「統一された日本民族」という概念が虚構なのではないだろうか。
年始に緊急事態宣言を巡る動きがあった。東京都などの知事たちが政府に対して緊急事態宣言の発出を要請した。おそらく知事たちは政府が支出の増加を恐れて緊急事態宣言を出したくないことは知っているのだろう。財務省出身の政府補佐官が新しく任用されたことから政府が実は予備費のファイナンスができていないのかもしれない。政府は逆に都道府県に「緊急事態宣言よりまえにこれだけをやれ」と責任を転嫁しようとしている。
政府が駆け引きをしているのは都道府県だけではない。GoToトラベルを推進したかった政府は専門家に「自分たちが聞くまで意見はいうな」とした。専門家は都合よく利用されるだけの存在になったかにみえた。ところが尾身会長は政治的には菅総理の上をいっている。国民への依頼という形で政府批判を避けつつ情報発信を続けている。
政府は安倍政権の隠蔽によって神聖さを失った。その代わりに科学を新しい神官にしようとした。日本の政治中枢が政治的信頼という言葉の持つ魔力を理解できなくなっていることはわかる。
都道府県に緊急事態宣言を依頼された形になった政府は「まだ専門家の意見は聞いていないから」といっている。国民はすでに「専門家は緊急性を感じている」ことを知っているので「まだ聞いていなかったのか」と感じてしまうわけである。ますます政府は信任されなくなる。神官は神とやりとりをしていないようだ。
政府はGoToトラベルなどを推進して経済界の機嫌を取りたいのだが選挙を控えていて国民の反発が気になる。このため都道府県と専門家に責任をなすりつけたい。しかし予算権限を一手に握っているのは政府なので誰にも責任転嫁できなくなっている。
このような責任の押し付け合いが起こるのは、実は日本の中に「オールジャパンで新型コロナに打ち勝つ」という意欲がなくなっているからである。政府にも都道府県にも専門家にも「日本」という主体はない。国民から「儀式的な信任」を得られている人たちが誰もいない状態にある。
神主同士が取っ組み合いの喧嘩をしている神社に初詣にゆく人はいない。
政治の意思決定というものが不確定性を孕んでいる。つまり合理的な委託関係が常に成り立つとは限らず、その代替として「儀式的な信任」が求められることがある。だから普段から儀式的な要素が必要になるのである。
面白いことに「都道府県知事と政府が責任のなすりあいをしているので再びオールジャパンになるためにはどうしたらいいか」と聞いたところ、感情的に反発する回答がいくつかついただけだった。これが一部の人たちの神経を大きく逆撫ですることだけは確かなようである。
つまり、我々は日本の政治家から神聖な一体性がすでに失われていることを十分に知っている。だから怒るのだ。おそらく日本民族の一体感は虚構だなどと言おうものなら、彼らは烈火のごとく怒るだろう。
なぜこうした神聖性が失われたのかもよくわかっているはずである。安倍政権は8年に渡って憲法を歪め統計をないがしろにしてきた。彼らが自己保身のために奪ったのは「政治は信頼できるものであって民主主義は本来的によいものなのだ」という儀式的に作られた虚構の信念だ。虚構であるからこそそれは神聖なのだがいったん失われてしまうとそれを回復するのはとても難しい。
神主同士が取っ組み合いの喧嘩をしている神社に初詣にゆく人はいない。その神社はやがて打ち捨てられ意味のないがらんどうの空間とみなされることになるだろう。