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2021年はおそらく思っているよりはいい一年になる

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2020年はとにかく不安定な年だった。内政では新型コロナウイルスの影響でこれまで確かだと思っていたものが意外とあてにならないと言うことがわかった。とはいえ今の社会がそれを解決する力を持っているとも思えない。この象徴が安倍内閣の政権放棄だ。「力強いリーダーシップ」とやらを偽装していた安倍政権は病院への大げさな車列を演出し政権を放り投げた。

外交上ではアメリカと中国の対立が目立った年だった。こちらは頼るべき大国構造がなくなりつつあることを象徴してる。いわゆるGゼロ時代である。アメリカの民主主義はいつになく不安定で怪しげなものに思えた。だが、実際にはその萌芽はオバマ大統領の時代に作られているものが多くしたがってバイデン政権でそれが解消するとは思えない。フランスでも表現の自由を巡る騒動が起きイギリスは「自分の好きなようにやりたい」と言ってEUを飛び出した。

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こちらも中国という非民主主義体制がその代替になることはなさそうだ。最近ドイツが中国から距離を置き始めている。民主主義国家が通過した問題を内包する中国は欧米先進国の未来像にはならない。中国が連合する国は民主主義についてゆけなくなったかあるいは未成熟な国ばかりだ。

内政を見ても外国の状況を見ても、現在のシステムも行き詰まっている。かと言って代替案がないという状態だ。だが実はこれがいいのではないかと思える。

例えば日本では自民党がだめだということになっている。以前の日本であれば「じゃあ社会党」ということになっていたはずだが、今や立憲民主党は役に立ちそうにない。同じようにアメリカが落ち目だからという理由で中国につくのも得策ではなさそうだ。こちらも代替がない。つまり、日本人には逃げ道がなくなりつつある。

するとあとは自分で考えざるを得ないし、自分で考えればいい。

そんなことを考えていたところ思わぬところに道が見つかった。以前「日本人はなぜ物事を論理的に考えらえないのか」ということを考えていた。おそらく国語教育に問題があるのだろうと考えて質問をして見た。しばらくまともな回答がつかなかったのだが、最近「国語学会が純化したからでは」という回答がついた。この人はおそらく教育のインサイダーなので純化を批判している。したがってなぜ純化したのかということは考えない。

外から見ているとおそらく純化したのは政治と軍が教育に過度に介入した時代があったからである。明治期には「このままでは西洋列強に飲み込まれる」という危機意識が国民全体にあり日本の教育をどうすべきかという議論があったそうである。外部からの視点が入ることである程度教育の実用性が担保されていた。

ところが軍部が教育に過度に介入し政治はそれに対して無力だった。このことからおそらく戦後には過度な純化が進んだのではないかという仮説が立てられる。純化した文学者たちは社会批評などは厳しく制限されており、もともと内面世界しか追求できなかった。だから自分たちが持っていた規範をそのまま国語教育に持ち込んでしまったのではないかということになる。

こうして日本の教育は実用性を失ってゆく。だが高度経済成長期とそれに続く資本蓄積期にはまだ「逃げ場」があり「これではいけないのではないか」という議論は起こらなかった。

例えば日本学術会議もこうした政府からの過度な介入に抵抗した歴史がある。彼らは社会に自分たちの実用性を訴えかける道を選ばなかった。憲法学者もそうだった。「政治家も国民も何もわかっていない」として神学論争的な憲法論に明け暮れた。昭和・平成というのはおそらくそれでも良かった時代である。

新型コロナウイルスが蔓延し「自分たちの暮らしは自分たちで守らなければならない」となった時、最初に顕在化するのは、こうしたこれまで孤立していた専門家集団と政治・経済の内戦状態だろう。だがその段階を経ずに協力する体制を再構築することは不可能なのかもしれないと思う。

もちろんこの災厄を生き残れればのことだが、今起きているいざこざは実はいいことなのかもしれない。どうやら東京を除く地方は他人の目の厳しさもあり「行動を抑制しよう」ということになっているようで新型コロナウイルス感染者の数は抑えられるか横ばいになっている。痛みもわかりやすく跳ね返ってくのである程度協力する体制が担保されてる。ただ、東京だけ感染者の数が上がり続けている。これまで「他人の目がない自由さ」を享受してきた人たちではあるのだがそれがマイナスに働き始めている。自分たちの振る舞いがどう社会に影響するか実感できる規模を超えているのであろう。

2021年は新しく緩やかな協力体制を構築してお互いに助け合いながら生きてゆきたいと考える人にはおそらくそれほど怖い一年にはならないだろうと思う。ある程度は危険が制御できるからである。

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