東京都など首都圏の都県知事が緊急事態の宣言を求めた。政府はなぜかこの発出に慎重であった。当初は「特措法の改正を優先したいのだ」と言っていたのだがその後方針を転換した。お正月小池劇場の仕掛けに乗せられた形である。このドタバタの理由を考えてみたのだが実はよくわからない点がある。本当に小池劇場は成功したのか、あるいは共依存関係にあるのか。
国も国民も「緊急事態宣言をすると国が保証をしなければならない」と考えていそうだ。さらに「政府が緊急事態宣言を発出しても誰も従ってくれないのではないか」という恐れがありそうだ。つまり権威が失われることを恐れている。
よく考えてみると「政府がお金を使って人を動かす」以外に人を動かす道がなく、人が動かねばメンツが潰れるとなぜ考えているのか、よくわからない。
特措法の改定で強調されているのは「罰則強化」である。つまり政府は人の気持ちを動かすにはお金を与えていうことを聞いてもらうか罰を与えて恫喝するかしかないと考えていることになる。いうことを聞かせるのに暴力を使わなければメンツが保てないと考えているDV夫かパワハラ上司の気質である。。
特に菅政権はこの傾向が強く、やたらにポイントや特典で人を動かしたがる。その裏にはいうことを聞かない人に人事報復するという「マイルドな暴力気質」がある。ますますDV夫に似ている。強気の態度と恐れが共存しているというメンタリティだ
背景にあるのが共感力の決定的な欠如だ。二階幹事長は「自分は総理も呼びつけられる」と考え仲間内の忘年会の席に菅総理を会食に呼び出した。「コロナは他人事」という共感力のなさがある。麻生財務大臣も日々マスコミに上から目線のお説教をしている。
国民は危機を訴える西村大臣の「言葉」ではなく二階幹事長と菅総理の「行動」を信じその結果東京都の感染者数は一時1,000人を超えた。共感力がない政治指導者の言葉は信頼できない。だったら行動から判断しようと考える人が首都圏には多かったのだろう。
「国民は自分たちが管理する対象である」という歪んだ認識は自民党が選挙に負けて自民党憲法草案を作った当時から顕著になっていた。特権意識を持っているにも関わらず自分たちは被害者であり正当に評価されていないという被害者意識も持っているというアンビバレントな心理状態だ。
彼らが考え出したのが「緊急事態条項」である。自分たちは本来は優秀なのだから国民主権を制限し強い権限さえもらえれば成功できるはずであるという仮想的な万能感に彩られており大変危険だった。だが、実際に緊急事態を発令する段になって菅総理はこれを自らの判断したくなかった。そこでまた小池劇場の「恫喝」に押されてやむなく判断したという形を作ろうとしている。
専門家の意見を今から聞くと言っておきながら「9日に発令する」となりそこからすぐに「いや7日からだ」となったようである。いずれも政府関係者の発言となってる。総理が説明したわけではない。総理と政府の千々に乱れた心理状態がわかるのだが泣きたいのは国民の側であろう。
特措法改正はやってもらっても構わないと思う。おそらくスモールビジネスを恫喝する新しい特措法は政府への恨みをもたらすだろう。一度目はうまくゆくだろうが次の緊急事態宣言にはますます慎重になるはずだ。こうして強い権限を得れば得るほど対話の土台が崩れますます恫喝と脅迫の政治に傾斜する。だが共感なき今の政府にそれ以外の選択肢はなさそうだ。
日本の中から「神聖な一体感」が失われているということだけは確かなようだ。政府は国民を恫喝して管理すべき対象と考えてる。国民は国民で「政府が痛みを伴う支出をすればいよいよ尻に火がついたのだからいうことを聞いてやってもいい」と思っている。東京都と政府は命(医療)と生活(経済)を掛けのテーブルに乗せて政府と派手なテレビショーを繰り広げているが政府の側も脅かされていやいや決めましたと見せたい。非常に冷たい関係である。
これまで「都合が良い数字だけをあげてこい」と官僚を恫喝していた菅政権には情報は入らない。専門家は国民に向けて直接情報発出をする。情報をリークしていた官僚よりもダイレクトなやり方で政府と「戦って」いる。全体的に寒々しい光景なのだがそれはそれで奇妙な安定感がある。
一体感が失われたことを恥と考えて決して認めたくない人がいるようで、場合によってはかなり強烈なリアクションが出る。おそらく実生活でも「いうことを聞いてもらえない」という不安を感じているのだろう。共感能力が低く相手に何かを差し出すか脅すかという二者択一になってしまう人はその恐れを政治にも投影させてしまう。
一方で共感能力がありすぎる人たちもいる。彼らは普段から暗黙の依頼や罪悪感に働きかける同調圧力に苦しんでいる。面白いことに優しい人ほど同調圧力に苦しみやすい。彼らは逆に「日本から一体感が消えて恫喝ベースの社会になった」というステートメントに一種の開放と感じているようだ。