久しぶりに「あいちトリエンナーレ」の話題を見た。いわゆるネトウヨという人たちのしょうもなさを改めて見た気がする。愛知県知事のリコール請求で不正が発覚したそうだ。ここまで情けない話に堕したのかと思った。
もともとこの問題は「昭和天皇の肖像画が燃やされている映像を税金で支えるのか」という問題だった。だがいつのまにか「事前検閲の是非」と「憲法と表現の自由の問題」になり炎上した。今回、過去に何回か書いている物を読み直すために「あいちトリエンナーレ2019と表現の自由」というタグをつけて整理した。だが読み返して見ても特に何かの知見が得られたという感覚はない。総じて言えば考えるだけムダという類の話だった。
この展示に反対の人たちは表向きは「税金が入っている展示で天皇陛下の肖像を燃やすのはけしからん」と主張している。だが実際にきっかけになったのは韓国メディアのトリエンナーレ報道だっt。つまり「韓国に笑われたように思わされた」のが嫌だったのだ。主観的な問題である。
この騒ぎが「補助金の支出停止」にまで発展した。
もちろん主催側にも考えるべきところはある。「表現の自由は大切である」というばかりで、なぜそれが大切なのかを考えてこなかったように思える。税金で遊べる場所が社会の片隅にあるというような感覚だったのではないだろうか。なぜ表現の自由は大切なのかということはこの文章の後段でもう一度考えるのだが、表現そのものや憲法の条文を見つめても答えは出てこないと思う。
だが主催者サイドの反応があったとしてもおそらく感情的なもの以上にはならないだろう。違いを持った他者と折り合おうというつもりは実は彼らにもない。ただ「わかる人だけがわかればいいもんね」ということなのだ。
さらに役所側の対応もまずかった。文化庁が発表した表向きの説明は「安全に開かれる前提が崩れた」というものである。つまり検閲の問題を避けようとした。この段階では「ネトウヨ側」が勝ったことになった。つまり騒げば気に入らない展示を中止に追い込むことができるということを証明してしまったのだ。
だが一転「支出」ということになった。裁判で記録が残るのを避けたという話を聞いたが表向きは県側が減額して再申請したから交付したということにしたようだ。結局誰も原則論的な整理をしなかったし記録さえも残さなかったそうだ。おそらく憲法問題とリンクするのを避けたかったのだろう。日本人が憲法をさほど大切にしていないことがわかる。行政執行者にとってあれは単に厄介な枷にすぎないのである。
今回、不正が見つかったのは愛知県知事のリコール問題である。名簿の8割が不正だった疑いがあると報道されている。共同記事を読んだ時には14選管のうち約8割にあたる11選管の名簿に不正な名前が含まれていたという話なのだろうと思った。この分析はそもそも8割の名前が不正だったといっている。正確には不正の疑いがあるというだけなので実際にはどれくらいの不正があったのかはよくわからない。主導した高須克弥さんはすでに病気を理由にリコール運動からは撤退しているそうである。
実際に誰が運動を指揮したのかはわからない。遵法意識のなさだけが目立つ。つまり形式的に勝てるのであれば何をやってもどんな理屈を持ち出しても良いと思っているのであろう。議論の目的はとにかく勝つことなのだからその中身に意味がないのはあたりまえなのである。
誰も表現の自由がなぜ大切なのかということを議論しない。あるものはおもちゃを取り上げられて怒り、あるものはなんでもありでそれを妨害しようする。そしてそれをプリンシプル(原理原則)のない大人が右往左往しながら見守っているという情けない風景が延々と広がっている。
民主主義は「意見が異なる人とも共存しなければならない」から話し合いを推奨する。つまりお互いにルールを守ろうという気持ちがなければ成立しない。だから本来はこの問題を探ることでさまざまな知見が得られるはずだった。我々はおそらく惜しい機会を逃した。
「表現の自由」と「多様性」の議論は民主主義を考える上では極めて重要である。この二つは時折コンフリクトを起こすことがあるのだ。フランスではシャルリエブドが表現の自由を理由に攻撃されている。いっけん「フランスの民主主義という正義」を守る運動のように思えるのだが背景にはイスラム教徒の差別問題もある。
さらにこの問題を調べてゆくと、フランスが隣国との対抗上人工的にフランス人という概念を作り出して維持してきたという歴史にぶち当たる。南部には別言語レベルの方言があり、フランス語・フランス人という概念がもともとかなり脆弱で人工的だということがわかるのだ。
フランスは人権擁護というお話で成り立った国である。だからこのお話に沿わない人が出てくると揺れる。ではそんなお話は無意味なのか?ということになる。
民主主義が成立していない社会では部族対立がそのまま内戦に発展することがある。エチオピアがその例である。エチオピアは「優等民族」が一部の少数派と組んで社会全体を抑圧するか多数派が軍隊を使って少数派を抑え込むかというかなり悲劇的な二者択一を迫られてる。この社会は民主主義段階に到達しておらず総選挙システムがないそうだ。
民主主義社会はエチオピアの融和にノーベル平和賞というご褒美を与えた。だが、実際にはそんな単純な問題ではなかった。褒められたから民主主義になるというものではないし、そもそもヨーロッパでも民主主義は揺れている。絶えず自己検証が必要だが一旦成立するとなくてはならないものになるというのが民主主的システムだ。相互に依存しあった複雑な仕組みなので一部だけを勝手に変えることはできない。
かつてどこの世界でも繰り広げられていたであろう万人闘争時代を脱却するために「民族性=表現の自由」を一旦放棄した上で話し合いのシステムを充実させる必要がある。こうして程度民主主義が定着したあとでまた表現の自由や多様性が主張できるようになるのである。
いずれにせよ「芸術や表現」そのものに着目していても答えは全く出てこない。大変面倒なことだが何が前提になっているのかを絶えず学び直す必要がある。
ただ「ルールを曲げてでもとにかく誰かに勝ちたい」など論外である。リコール制度は間接民主主義の欠点を補うために作られた直接民主主義的な制度なのだそうだ。「どうせ誰もこんなもの調べないだろう」程度の気持ちでこの制度を悪用した人がいるとすれば社会的には大いに非難されなければならないだろう、今後の調査が待たれる。