ざっくり解説 時々深掘り

前回まで、白河院政から江戸時代が成立するまでの間の歴史を「周縁とタンデム」というキーワードで見てきた。日本の権力構造を評価する時に「これはいいことなのか悪いことなのか」ということが見たいのだ。例えば「安倍前総理が公職選挙法で逮捕されないのはいいことなのか」という分析にこれを使いたい。

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日本では権威と権力が同居する中心は安定しない。権力は権威から距離をおくことで権力構造を安定させる。だが、なぜか権力者が権威を求めるようになることがある。するとなぜか自滅してしまう。

例えば大河ドラマ「麒麟がくる」では織田信長が歴代足利将軍が拝謁を許された蘭奢待の切り取りを所望し、欠片を正親町天皇に分け与えると言う乱行に及んだ。権威を求め始めた信長はやがて明智光秀に殺される。

ただ自滅のあり方はバラバラである。二つ以上に分裂して争うこともあり、後継者が見つからないこともある。「権力構造が安定しなくなる」と以外の共通点はない。いずれにせよ、権力と権威を引き離すとまた構造が安定するわけである。

権力基盤を支えている人たちの視点から見直すと面白いことがわかる。彼らは「誰かを担ぐ」ことにより協力関係を維持している一方で周囲とは潜在的な敵対・緊張関係を維持している。日本人は本質的に協力はしないのだが誰かを担ぐ時だけは安定する。この中心を仮に神輿と呼びたい。

ここでいう神輿とは「誰もが担ぐことができるが決して変えられないもの」である。都合よく解釈することは許されており時にはそれが推奨されることもある。形ばかりのものにしてしまってもいい。しかし決して変えてはいけない。

西洋の民主主義はまず不可侵のものとして「神」をおきやがて「基本的人権」に置き換えた。そして権力(行政)・権威(司法)・担ぎ手(地方の有力者から議会になる)の三権を分立することでバランスを保とうとしている。日本に三権分立はないので日本の民主主義は未成熟だなどと言われる。だが、それでも政治はそれなりに安定している。かつては天皇権威という不動の中心があり今では憲法がそれに変わっている。ところがこれは不確かな神輿でしかないために時に混乱が起きる。

安倍政権にとって安倍晋三という人は明らかに神輿であった。神輿であるからには実権力からは離れていなければならない。安倍政権の場合は外交と憲法があてがわれた。安倍政権は外交的に成果のない政権だったが安倍晋三は「外交の天才」とされた。さらに憲法改正もまったく前に進まなかったが「安倍総理がいなくなった」ことで憲法改正論議が遅れるのではという焦りが生じている。

おそらく憲法改正議論は日本人にとって取るに足らないことであるがゆえに「最も重要な課題」とされているのだろう。解釈次第でどうとでも変えられるが決して形は変えてはいけないという神聖な二重性が憲法にはある。このルールが「実は変えられる」となると人々は都合の良い改変を目指すだろうから憲法改正議論がまとまることは決してないだろう。

実際に人々が注目しているのは経済と医療福祉の維持であった。つまり日々の暮らしが政治なのだ。日本は高度経済成長時代を通じて外貨を獲得しており企業は海外に多額の投資をしてる。このため債権超過の状態にあり経済は信任され続けている。このため日銀が借金を繰り返してもインフレが起こることがなく政府の過剰な国債発行が正当化されている。結果的に株価は支えられ安倍政権は国民から信認されてきた。

ところがここで新型コロナウイルスが蔓延し評価指標が大きく変わってしまった。これが権力構造を変え安倍政権は政権を放り出した。

だが、実は政権の放り出しによって影響を受けたのは権威の側ではなく権力の側だった。これまで安倍政権の裏側で実際の権力を握っていた人たちが表に出てきて直接国民と向き合わなければならなくなってしまったわけである。「説明不足」であるという批判を受け支持率は風前のともし火なのだが説明不足自体は今に始まった事ではない。

そう考えると権威の側にあった安倍晋三事務所の問題は取るに足らない問題ということになる。さらに野党が実質的に意味がなかった総理大臣側を攻撃することは実は政権にとっては好都合だったことだろう。

菅政権はこれから野党の攻撃を直接受けなければならない。

例えばこんな話があった。「「すべて首相が1人で仕切った」 医療費負担増 菅氏と公明、対立から決着までの舞台裏」である。菅総理が「決めてしまった」ことで政権が8日間に渡って動揺したのである。

おそらく自民党幹部の狙いは菅総理に何も決めないことを決めてもらうことだったのだろう。つまり権威として不動であることを求めたわけである。ところが菅総理は権力として「この中で一番メッセージ性の高い」選択肢を選んでしまう。そこから混乱が始まりやがて菅総理は意思決定の撤回を求められる。菅総理は公明党に敗北した。

総理大臣は選挙の目玉を探しており「若年層への負担軽減」というメッセージを出したかった。これに公明党が反発する。自民党には「若年層の負担を減らすべきだ」という人たちと「高齢者に反発されたくない」という人たちがいて決められない。結局総理大臣が「最終決断」して170万円を選んだ。ところがこれは「自民党も公明党も落とし所としては考えていない」高いラインだった。その後の混乱は報道の通りである。公明党が乗り込んできて総理決断がひっくり返されて終りを迎える。

菅総理の権力的側面は否定され「神輿」の役割を押し付けられた。彼は「神輿」として無能で何も決めてはいけない人になってしまったのだ。彼ができるのはせいぜい携帯電話料金を下げさせることくらいである。民間会社の収益が減っても政治家は困らない。

ところが現在新型コロナウイルスという国民の命に直結する問題を一人で決めなければならないという状態に陥っている。誰も責任を取らないからだ。おそらく新型コロナの失敗は「流し雛」を求める動きとなって中心に向かうだろう。

おそらくこの政権は長くは続かないだろうが後継になる神輿はなかなか見つからないかもしれない。新型コロナが消えない限り神輿というよりは厄を流すために燃やされて捨てられる流し雛のように扱われることは目に見えているからである。流し雛の末路もわかっている。民主党政権は福島第一原発事故の責任を「悪夢」と押し付けられ二度と浮上することはあるまい。

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