ざっくり解説 時々深掘り

日本学術会議の任命拒否問題

突然よくわからない問題が降ってきた。日本学術会議で推薦した会員リストのうち一部が拒否されたのだという。マスコミは理由を知りたがり、野党は反発し、拒否された人は戸惑っている。これをどう考えるのかということになる。だが、どう考えていいのかよくわからない。日本学術会議が何だかよくわからないからである。

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最初の記事を読む限り、どうやら政府に色々提言をする会議らしい。内閣総理大臣の管理になっていて国からお金が出ている。このため会議のメンバーは政府が決めるができるわけだが、いままで「決められるが決めない」という国会答弁を通してきたそうだ。学術会議は学術の世界では国会のような役割を果たしているという人もいるが、特に選挙があるわけではなく学者内の不透明な議論で物事を決めているようである。だから世間の反応もそれほど強くない。おそらく菅総理の庶民感覚は当たっている。

第一に菅政権の稚拙なやり方は感じる。今までフリーパスで通ってきたところにいきなりサプライズを加えて「自分たちの存在を大きく見せよう」としているようである。小権力者にありがちな作戦といえ菅政権らしいといえば菅政権らしい。つまり「地下侍の小者内閣」ということである。メッセージは単純で自分が金を出しているから自分の意に沿わないものは受け入れないということなのだろう。

次に安倍政権でも法制局に問い合わせはしていたようである。おそらく安倍政権ではリアクションを恐れて断念したのだろう。だが菅総理は強行してしまった。安倍政治の一端が実は菅政治だったということもわかった。

だがそれはそれで構わないのではないかと思える。これまで日本の政権は多くのところで自分たちの意思を明確に示してこなかった。このため「誰が総理大臣になっても単なる神輿である」というような気の緩みがある。菅政権が「自分の意に沿わないものは排除する」というならば、それは「結果に責任を取る」ということでもある。どんどんやってもらって構わないのではないかと思う。

アメリカは泥沼の選挙戦をやっている。勝ったほうが政権を総取りできるからである。特に最高裁判事の問題は苛烈だ。過半数を取ったほうが「勝ち」ということになっているからだ。ギンズバーグ判事というリベラルに人気のあった人が亡くなり、その後を保守派の判事が埋めるという展開である。これが民主主義だ。

菅総理が本気で権力を引き受けるつもりがあるなら強引に決めても構わないと思うし説明もしなくていい。その代わり可否を判断するのは主権者たる国民である。

ただ介入される方はいい迷惑だろうと思う。例えばNHKはもはや政府広報であり公共放送として万人には支持されていない。同じように日本学術会議も今後は御用機関と考えられるようになるだろう。会議は菅総理に説明を求めるそうだ。政府にスポンサーしてもらっているとはいえ、会議のブランドを守るためには当然の選択である。

その上で渡辺輝人さんの書いた文章を読んで見た。「公務員として任用しているから形式上内閣総理大臣が身元引受けになっている」と読めるような内容である。ともかく、政府はそう答弁してきたらしい。「この政府答弁と矛盾するから違法の可能性がある」と言っている。

だが、統治行為論がまかり通る日本では「これが違法だ」と認定する人は誰もいないだろう。おそらく裁判所はこの手の問題には口を挟まない。だからこの議論にはおそらく儀式的な意味以上のものはない。

こうした学術会議が設けられるのは「政府が勝手に決めているのではないんですよ、独立した学術の意見も取り入れていますよ」というメッセージを発出するためだろう。儀式としての政治にとっては極めて重要な意味のある行為である。戦後すぐの日本政治はそれを理解していたが地下侍集団には届かない。彼らは名誉や正当性という問題を理解しないからである。

独立と「勝手」は違う。現在は「学問は政治に影響されず自由に意見を言うが政権の側がそれを聞くかどうかは政権の勝手」であると言う運用になっているのだと思う。菅政権はこれを取るに足らないものと考えたのだろう。

外れた人たちは安保法制に反対した人ばかりだそうなので、学術機関は翼賛機関であり自分たちの意に沿わない人たちはいらないといっている。国民のいうことは聞かないで自分たちは勝手にやると言っている。名誉や儀式的な正当さへの理解はなく政治は単なる権力闘争だと思っているのだろうし「嫌なら取り替えてくれても結構」ということなのだろう。国民の協力なしに勝手にどこまでできるのかというのはまあみものであろう。

学術は政治の外で勝手に意見表明をする自由はありこれを妨げることはできない。逆に明確に外に敵を作ったという意味は大きい。おそらく結果的に菅政権が失敗した時には誰も味方をしてくれる人はいない。その意味では野党がこの問題を取り上げて院外で騒ぎ続けることには儀式的な意味がある。国民は「政権は勝手に暴走していて、自分たちには関わりがないことだ」といえるからだ。

おそらく不安に思った一部の人が政権を離反して野党に票を投じることになるだろう。その時党内基盤のない地下侍の集団は慌て始めるはずである。地下侍集団には「錦の御旗」が必要なのである。

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