東京アラートが解除されてからまた新型コロナウイルス感染者が増え始めた。だが今度は様子が違っている。東京都は実態隠蔽のために数値目標を撤廃したようだ。だが人々が反発している様子はなく「差別」で対抗している。東京は汚れているから来るなということになっているらしい。ひどい話だが仕方がない。東京には前科がある。
新型コロナウイルスはおそらく冬には蔓延し夏には「なくなりはしないがましになるであろう」と言われてきた。どうやら政治の中枢位にいる人たちは「実は思っていたほど大した問題ではなかった」と感じているようである。いくつかの動きが起きている。
第一に「ポスト安倍」レースが始まった。コロナが落ち着いている間に動いておこうというのだろう。彼らは新型コロナウイルスの挙動がわかったのだからコントロールできるのだろうと思っている。第二に専門家外しが行われている。わからないものがわかるようになったのだから口うるさい専門家はもういらないということになったわけである。専門家というのは利用するものであって決していうことを聞く存在であってはいけないということだ。第三に意思決定の基準を不透明化しはじめた。
小池百合子東京都知事は選挙向けに「自分のおかげで新型コロナウイルスが収まった」という演出ができればいい。数値目標は「収まった」という感じを演出するのには必要だがあとは邪魔になる。危機の演出をするが後は知らないというのはもう東京都政ではお馴染みの光景だが、おそらく東京はこれを受け入れるだろう。
こうした無責任が蔓延するのはなぜか。それは都民自身が無責任だからである。持ち出しは少なくしたいし損は誰かに押し付けたい。日本人はそれで構わないと考える。複雑で分からないものはなかったことにするという昭和型の政治の成れの果てが今の東京都政なのだ。
東京の人たちは小池都知事の新しい約束に夢中のようだ。小池百合子都知事はこれまで都の余剰金を使って大盤振る舞いをしてきたのだがそれはできないことはわかっている。普通の自治体ならば国から支援してもらう必要があるのだが財政に余裕がある東京都では「都債」の話が出始めているそうである。借金をするにせよ国から引っ張ってくるにせよ候補者たちの意見は一致している。自分たちの負担は少なくしたい。財政再建という面倒なことはもう考えたくない。
一方で新型コロナウイルスは「夜の街」の特殊な病気ということになりつつあるようである。自分たちに関係がないし「夜の街に関係しない人には感染しない」ということになっているようだ。学校関係者にも感染者が出ているが生徒たちを積極的に検査しようという話にはなっていない。おそらく夜の街と同じように学校からも無症状の感染者がたくさん見つかるだろうが、それでは「特殊な病気」ということにはならない。
東京の外の人たちにとってみると「あれは汚れた東京の病気」であって自分たちには関係がない。実際に埼玉県でも千葉県でも東京と行き来のある人から感染者が見つかっているそうだ。新型コロナウイルスの出始めの頃に分析したマスク思考である。自分たちの守備範囲さえ守っていれば病気は蔓延しないという意味では必ずしも間違ったやり方ではない。
日本人の行動基準は一貫して「損や不利益の外部化」だとわかる。ゴミは村の外に持ち出せばゴミではなくなる。自分たちからは見えないからだ。この、外部化のために必要なのが、専門意見の排除・数値目標の撤廃・差別なのだ。実は国民と政治家はこの原理のもとでつながっているといえる。
専門意見を聞いてしまうと「問題を自分たちで処理しなければならなくなる」ので面倒なのだろう。下手をすると問題を押し付けられかねない。問題は天災のようなものであるから「台風や地震を分析しても仕方がない」という気持ちもあるのかもしれない。
ウルリヒ・ベックが看破したように「リスク社会」では我々が経験する災害は次第に複雑化している。記憶に新しいのが東日本大震災とそれに続く原子力発電所の問題だった。汚染水・汚染土の問題は今でも続いているはずだが「運悪く受け入れてしまった人」がババ抜き的に損を押し付けられている。ヨーロッパはこれを自分たちの問題と考えたが日本人は外に押し出そうとする。
特にひどかったのが福島県からの移住者に行われた「放射能差別」だった。今回はこれが新型コロナウイルスに代わった。皮肉なことに前回は差別する側だった人たちが差別されることになる。岩手では岩手一号になったら岩手に住めなくなるから東京から帰ってくるなと言われるそうだ。
東日本大震災当時、福島は漢字を奪われ「フクシマ」として差別された。今回の東京はどうなるだろうか。テレビ局は東京の当事者なので「トウキョウ」とは表記しないかもしれない。