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小沢一郎の物語 -諸悪の根源小選挙区制度はいかにして生まれたか

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先日来政治資金規正法について観察している。きっかけになったのは河井克行前法務大臣の逮捕である。河井克行さんの広島では旧態依然の政治が行われていたようだ。この金権体質がなぜ改まらなかったのかに興味を持った。ルーツを探ると政治資金規正法がいったん宮澤内閣・細川内閣で見直されているというところに行き着く。すると制度が改まったのに買収・抱き込みという慣行が残ったのかという疑問がうまれる。最終的にこの政治資金改革が「政争に利用された」という歴史が見えてくるのである。

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政治資金改革はロッキード事件・リクルート事件と続いた政治家の金権体質に対する国民の怒りから始まった。だがそれはやがて政争に利用されることになる。だからマインドセットの改革につながらず日本人がそもそも持っていた利益誘導型の政治は改まらなかった。

竹下内閣がリクルート事件をかわしきれずに瓦解する。だが党内の巨大派閥としては残った。この時に台頭したのが小沢一郎である。経世会という集まりが二位以下の派閥の看板を借りて間接的に総理・総裁を選ぶという時代になった。おそらくこの辺りで「看板を架け替える」ために政党が入れ替わっているように見えればいいのではないかというアイディアが生まれたのではないかと思われる。これがおそらく日本型の二大政党制のアイディアの基礎である。つまり派閥同士の争いを政党同士の競い合いに替えようとしたわけである。

もともと小沢は幹事長として自民党の政権を「外側」から見ていた。総理になるように指示されたがそれは断っている。そして批判者として「このままでは自民党はダメになる」と思い始めたのだろう。日本の政治改革のモデルは英米であり英米といえば小選挙区二大政党制であると考えたようにしか思えない。筋みちだった説明が全く残っていないのだ。理論や国家観より派閥抗争に夢中だったのだろう。日本人の思想の貧弱さがここにある。もともと模倣国家なので自前の国家モデルが作れないのだ。

日本人は他人に何かを説明するのがとても苦手だ。だから「小沢自身がなぜそう思うに至ったのか」という説明がまったくない。実はこの時に影響を受けた人がいる。のちに総理になる羽田孜である。義弟が語るところによると海部内閣の小沢幹事長から選挙制度調査会長に任命されるとすぐに「小選挙区制度支持者」になってしまったのだそうだ。羽田は小沢に布教されてしまったことになる。このように日本の二大政党制は宗教として始まった。

この記事を読むと中選挙区制度を二大政党制にすれば「国のことを思う政治家」が誕生することになっている。政治風土はその社会の文化から生まれるものであって「制度をポンと変えた」からといって変わるようなお手軽なものではない。平成令和の小選挙区制度下での国政の停滞を見るとそのことがよくわかるのだが、当時の人はそんなことは考えられなかったのである。

だがおそらくこの時にはもう一つ狙いがあったのだろう。それが社会党差別だ。

小沢のその後の行動を見ていると彼の一貫した「社会党嫌い」がわかる。細川連立政権ができると保守系政党に働きかけて新しい政党ができ社会党排除が進む。怒った社会党は細川政権の不信任決議に参加しそのあと「左傾化」した自民党と自社さ政権を作った。それが村山政権である。ところが村山政権下で社会党は分裂する。社会党の左右対立が背景にあったと言われている。社会党から出た勢力が非自民系の人たちと結合してできたのが民主党で小沢一郎はここでも「社会党の残党討伐」を企て自らが離党することになる。

保守二大政党制というのは実は二つの動機に基づいて作られている。どちらも永田町事情だ。視野狭窄に陥っていて実際の選挙区事情を全く見ていないことがわかるのだが、当時は大真面目にこれが語られ、本当に非自民党の政権が作られた。

  • 自民党を二つに分けることで競争を促し、改革が行き詰ってもバックアップになるグループが改革を引き継ぐ。
  • 社会党を排除する。

このことで結果的に自民党型の保守政治を安定させようとしたのである。だが、実は小沢本人が談合型の政治から抜けられなかった。

当時の自民党事情を見るとかなり派閥談合的な色彩が強かったようだ。日経新聞を読むとその辺りの事情が書いてある。リクルート事件で禊(つまり有権者の藁人形にされたのだ)海部総理が辞任すると海部総理は再選に意欲を見せた。ところが周囲は反対し、経世会から総理を出せることになったが小沢一郎が固辞すると代わりに宮澤・渡辺・三塚という派閥領袖の争いになる。経世会は一度は渡辺を推すことに決めたがなぜか金丸が翻意し(一般有権者の受けを重要視して奥さんの意見を聞いたことになっている)て宮澤支持が決まった。

ギリギリまで迷ったが、自民党は結局は「改革断行」ではなく「一般有権者に受ける穏やかなリーダー」を選んだ。だが金丸が佐川事件で失脚すると経世会で派閥争いが起きた。最終的に改革派の小沢・羽田は改革の新しい錦の御旗として細川護煕を担いだが彼もまた佐川急便からの借金問題に足を掬われて辞任してしまった。こうして保守二大政党制の夢は潰え迷走が始まった。

おそらく小沢一郎らは現状認識が甘い派閥の領袖たちから権限を奪いなおかつ彼らが蔑視していた社会党(常に中選挙区の三位あたりで当選する)を政治から排除しようとしたのだろう。そのためには政党助成金と小選挙区制度はセットでなければならなかったのだ。だがこれは永田町事情なので当然地方への改革は広がらない。結果的に自民党が強い地域には旧来型の利権囲い込み政治が残ってしまったのではないかと思われる。

小選挙区制度と政党助成金の改革はどちらも成功しなかった。そもそも「なぜこれで日本の政治風土が変わるのか」という説明もなかった。だから未だに「なぜこんな制度になったのか」をきちんと説明できる人はいない。説明ができないから検証も総括もできない。

我々は今になって新型コロナウイルスで「総括も反省もない」という状況を目の当たりにしている。しかし状況は揺れるので「それを利用してのし上がってやろう」という人が出てくる。失われた数十年はずっとこの繰り返しである。「失われた」のではなく自分たちで勝手に迷子になっているだけなのであろう。

こうした中央の「改革」の陰で日本の利益分配的政治風土は残り、改革の成果であるはずの政党助成金を背景にしたと思われる(これも解明されないのかもしれないが)多額の金が選挙区に流れ込むことで問題化した。この件をきっかけに「改めて選挙制度のあり方を考える」こともできるのだろうが、おそらくそういう機運は起こらず、河井克行さんらをトカゲの尻尾として切るか安倍総理大臣まで責任問題を広げるべきかという議論で終わるだろう。日本人は総括しない。

この話を追跡して改めて面白いなと思ったのは分極構造だ。自民党・社会党という二大政党制は消え、そのあと守旧派・改革派・社会党になった。しかし三極は安定しない。結局、現在は自民党主流派・自民党改革派・野党主流派・野党傍流という四極構造になっている。時計が壊れても新しい時計が作られることはない。どんどんバラバラになってゆくだけなのだ。

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