ざっくり解説 時々深掘り

日本の男性ファッション誌

Xで投稿をシェア

ファッション雑誌が嫌いだった。もともとオシャレに自信がないというのが根底にあるのだが、見てもよく分からない。最初はどうして分からないのかすら分からなかった。現在「服が売れない」と言われており、出版社も赤字続きなのだという。ということで、どうしたら新しいアプローチができるのか考えてみようと、今年の始めくらいからファッション雑誌を読み始めた。それに加えて、ちょっとオシャレな人と言われたいという密かな野望もある。いちどはそういうシゴトもしてみたい。
何回も繰り返して読んでみたのだが、さっぱり分からなかった。どういうアプローチを取ろうかと思ったのだが、2つ実践してみることにした。

  • 自分で買い物するときの参考書にする。
  • あるものを使って工夫できないか考えてみるなかで、参考書として使う。

すると、ところどころに使えるコンテンツがあるのがわかる。スカーフを使ってひと味加えるとか、色を揃えるとか、そういうのがところどころ混ぜ込まれている。だから、ところどころ読んでゆけばいいわけだ。
しかし、結局日本の雑誌は参考にしなかった。参考になったのはGQとEsquireだ。典型的なコンテンツがこれ。The 12 Styles of American Man。Webではスライド式になっていて、ときどき広告がはさまる。アメリカも出版不況なので、Webの広告が大きな収益源になりつつあるのだろう。10とか12のスタイルの中から、気に入ったスタイルが見つかったら右側にある文章を読む。要点が短くまとまっている。気に入ったのはThe Rake(レーキ)で、熊手の意味だ。要は女ったらしで熊手のように女性をかき集める男性だ。ブレザー、ドレスシャツ(ただし上の3つのボタンは開けておく)、大きな時計が特徴だそうだ。まあ、3,400ドルのスーツは買えないので見るだけだとは思う。
結局、こういうのが記憶に残るのは、ヒトが中心にいるからだ、と思った。それを念頭に入れて日本の雑誌に戻る。すると次から次へと新しいモノに関する情報が流れてくる。結局買い物するとしても選べるのはその内の一つか二つだ。いったい何が見所なのか分からなくなる。モノが中心なので記憶に残らない。これがトータルに組み合わせられることによって全体のスタイルが生まれるのだが、部品が散乱したカタログ雑誌みたいになっているのが、日本の現状なのだ。記憶に残るのはパーツではなく、全体の印象だ。所詮、買わせるための雑誌だからなのだという見方もできるのだが、通販サイトはもっと親切になっている。掲載されている情報が売れ行きに直接関わるのだから、雑誌よりも「選ぶのに役に立つ情報」だけが生き残って来た結果なのだろう。
どうしてこういう事になったのか、というのは一応説明ができる。多分、記事の大半がタイアップになっているのだろう。広告主の関心はその服をどう売るかであって、読者がどういうスタイルを持つかということではない。だからでき上がる記事はカタログのようになる。それに「最近服の売り上げは落ちている」という情報が入る。だから「思い切って浪費するのが大人買いなのだ」という特集記事まである。ちょっと共感しかねる。作り手の都合で、記事がつぎはぎされて、最終的に一貫性のない雑誌ができ上がる。それでも売れる雑誌は20万部以上出ているというのだからすごいものだ。
でも、もう一歩踏み込んで考えるとちょっと分からなくなる。それにしても日本人が徹底的に「人間」に関心を向けないのはどうしてなのだろう?アメリカ流のスタイルガイドは、読み手がいろいろなスタイルを持っているのだということを前提にしている。人種的なばらつき、職業、生き方などがあるので「これが正しい」というスタイルはない。日本の雑誌で、同じようなモデルが、同じような服を着ているのとは対照的だ。これは「日本人にスタイルがない」ということなのだろうか。
もう一つは、GQもEsquireもファッション雑誌ではないということだ。男性誌という枠組みで、Esquireにはヌードも出てくる。極端な話をすると、週刊文春や週刊新潮に本格的なファッション情報が出ているのと同じことだ。生活情報の中にファッションが組み込まれているということのようだ。だからこうした雑誌がファッションだけを延々と特集するということはあり得ない。普通のビジネスマンにとってもどう見られるかということは大切な知識の一つなのだろう。
よい風に考えると、日本人はとりわけファッションに関心が高く、ファッションだけに興味を持つ人たちが多かったのだというようにも解釈できる。どのような仕組みでこうした枠組みが維持されていたのかはよく分からない。しかしこれが崩れてしまうと、そこそこの価格で、とりあえずみんなと同じような、こぎれいな格好をしていれば安心という社会ができ上がる。
今日は取り立てて結論のようなものはない。最後に情報アーキテクチャ的な論点からこれを整理してみたい。こうした日本の雑誌の情報はある程度整理することができる。例えば、覚えていられる情報の量は限られているので、読者を調査して全体が把握できる情報量を精査する事は可能だ。また、分類方法を工夫することで、初心者向け情報と中級者向け情報を分かりやすく整理することも可能だろう。するとどこを読んで、どこを読まないかという分類ができるようになり、読者が情報の迷路のなかで迷うことはなくなるだろう。最初にオーバービューを定義して、ディテールに移るという紙面構成もできるようになる。
アメリカの雑誌が読みやすく、日本の雑誌が読みにくいのはこの情報アーキテクチャーが不足しているからだ。ウェブの現場でもそうなのだが、日本のインタラクティブ・デザインのコースでは、情報アーキテクチャについて体系的に教えてくれない。アメリカのコースではインターフェイスデザインは必須項目になっている。しかし、ウェブサイトのデザイナーはこれを勉強せざるを得ない。雑誌と違ってナビゲーションを自分で定義しなければならないからだ。Web情報アーキテクチャ―最適なサイト構築のための論理的アプローチのような本もあるので、これを読んで勉強したヒトも多いだろう。
多分、紙メディアで働く人たち、特に編集プロのような末端にいる人たちはこうした学問があることすら知らないのではないかと思われる。同じように、大学の経済学部あたりを卒業して出版社に入った人たちもこういう勉強をするチャンスはなかったのではないだろうか。
しかし、情報デザインは根本的な問題を解決することはできない。それは「ヒトを中心に情報を組む」か「モノを中心に情報を組むか」とか「ファッションだけで行くか」「総合誌にするか」といったような問題だ。情報整理以前のプロデュースの領域だ。多分、読者に聞いてみても「生活に必要な情報とより快適に過ごす情報が適度に盛り込まれた雑誌」を見た事がないわけだから、こうしたニーズを発見することはできないだろう。
このような一連の問題を整理する事で、今までファッション雑誌が分かりづらいと考えてきた人たちが体系的に買い物ができるような情報を提供することができるようになるはずだ。今持っている専門知識や広告主との関係といったビジネスモデル上の制約が、本来どうあるべきなのかという議論を難しくしているように思われる。