グロービスの堀さんが、日本は「ものづくり神話」を捨てて「経営力」を磨けと主張している。いっけんまともな意見に見えるが、僕はこれには反対だ。「ものづくり神話」を闇雲に否定しても、経営力は磨けないだろうと思う。そもそも、ものづくりのどのあたりが神話だったのか、日本の経営者や現場の人たちは言語化して説明できるだろうか?
さて、15年程まえにアメリカでボウタイを買った。しかし、それを使うことはついになかった。理由は簡単でボウタイの結び方が分からないからだ。今年になって、ありものを組み合わせて着るというテーマのブログをはじめたので、ボウタイの結び方を練習することにした。いろいろサイトを調べてみた。ダイヤグラムを見ても、ビデオを見ても最後の部分がよく分からない。ビデオを観察すると、うらでこちょこちょっと何かをしているようなのである。結局、ダンヒルのサイトで見つけた「ボウタイは誰にでも結べます。靴ひもと同じやり方だからです」というのがヒントになって謎は氷解した。ボウタイは単なる蝶結びなのだ。ふとももに巻いてやったらすんなりとできた。どうやら右手の中指がフックになっているらしい。しかし首に巻いてもできない。鏡を凝視すること5分。で、疲れ果ててテレビをみながらやったら、すんなりとできてしまった。「あれ、どうやったの?」僕は未だにボウタイの結び方を説明することができない。でも、ボウタイは結べる。体が先に覚えてしまっていたのだ。
これについて後日考えてみた。つまり、できるけどどうやってできるかが分からないということが世の中には存在するのだということだ。一応出来ているのだから問題ないじゃないかと思った。本当に問題がないのか。これを考えるヒントは「ナレッジマネジメント」の中にある。
知識経営のすすめ―ナレッジマネジメントとその時代 (ちくま新書)でなくてもいいのだが、野中郁次郎さんの話を読むと、暗黙知という概念が出てくる。これは言葉にあらわせない知識全般をさす。これが学問の一領域として認知されたのは、日本の製造業がその頃アメリカを脅かしていたからだ。「どうにかして日本に学びたい」とアメリカ人は必死でその神秘を探ろうとした。それが暗黙知だった。日本人は逆に暗黙知を形式化する必要があるとも指摘された。
説明ができなくても困ることはない。これが問題になるのは、それを学ばせる必要が出て来たときだ。師匠に当たる人は説明できないので「馬鹿野郎、技術は盗んで覚えるもんだ」という。弟子も一生そのシゴトをやってゆくしかないわけだから、下仕事をしながら必死で師匠を盗もうとするわけである。15年経ったある日、師匠は弟子にそのシゴトをやらせてみる。するとだいたいのことは分かっているので、あとは簡単な手ほどきだけで知識の伝達が終わるのである。これが暗黙知の教え方なのだ。
これができなくなるのはどのような時だろうか。考えてみるまでもない。ここ20年くらいで日本に起こったことを想起してみればいい。
- 熟練労働者が派遣労働者に切り替わる。盗もうとしている間に、労働者が入れ替わってしまう。盗ませる側もいつのまにか引退する。
- IT化が進み、見ても盗めなくなる。(笑い話みたいだが、これは結構大きいと思いますよ)
- 技術の入れ替わりが激しくなり、一生をかけて一つのシゴトをするということができなくなる。
トヨタの場合には、もう一つ問題があったようだ。それは急な成長にともなって現地の会社にこうした暗黙の前提が伝わらなかった、もしくは最初から理解されていなかったのではないかということだ。日本人にとって当たり前のことが、外国でも当たり前とはいえない。日本人が暗黙知として理解していたものを、形式化して覚え込んでいただけなのかもしれない。こうしたことは、これから先、各地のビジネススクールで研究されるようになるだろう。新しいケーススタディの誕生である。
さて、日本人はマクドナルドやディズニーランド型のマニュアル運営をとても嫌う。職人シゴトが一生ものなのに対して、マニュアルを見ればできるアルバイトシゴトは「腰掛け」だからだ。確かにマニュアル化すると細かいニュアンスが失われる。最初のボウタイの例に戻ると、素材や襟の形にあわせて微妙な結び目を作る技はマニュアルには載せられない。日本には誰にでもできるようにすることを蔑視する土壌がある。もともと終身雇用で長く勤めている人がエライのは、それだけ暗黙知をたくさん蓄積しているか、シゴト上のネットワークをたくさん持っているからである。
しかし、経営者がこうした職人芸に頼るようになると何が起こるだろうか。1990年代、バブル景気のころ「工場のヒト」が優れた製品をつくるのは当たり前のことで、そんなことはスキルだとさえ見なされなかった。「本社のヒト」は、だからこそリストラのようなことができたわけだ。コアの人材さえ残しておけばスキルは残るだろうと思ったのかもしれないし、もともと何が起こるかということを考える余裕すらなかったのかもしれない。
グロービス堀義人さんのブログにもどる。経営学には「製造業=擦り合わせ」という暗黙の了解があるようで、まずこれが物事の理解をややこしくしていると思う。しかし、一方で製造業の現場が、モノ作り=品質だと考えているのが問題であることも確かだ。またボウタイの例に戻るが、暗黙知に基づいた経営での強みは「ごちゃごちゃいわなくても、一定の品質を持ったものが、すらすら作れる」つまりスピードだからである。からなずしも高品質がウリではないのだ。
堀さんは経営力を「経営力」とは、何か。それは、必要な改革を行い、「戦略」を描き、「実行」する力だと考えるとわかりやすいと定義している。しかしここには一つ大きな問題がある。それは現時点が問題だというためには、私たちの強みがかつて何であって、何が変わったのかという分析が欠かせないのだ。
もし、日本の会社が内向きになっているのであれば、もうそれを徹底的に活かしてみてはと思う。自分たちのことを知っていれば、何か起こったときにうろたえることはない。「本社のヒト」はもう「工場のヒト」が何をしているのか分からなくなっているのではないかと思う。だから、これ以上動かすことはできないのだろう。これが自信のなさにつながる。自信のなさが自己否定につながるわけだ。かつてはバカにしていた「韓国企業」に追い抜かれるのを見ると、もう内心は穏やかではいられない。
変革管理において、関係各者が自信を持つのはとても大切なことだ。競合を横目に「どうしてウチはあそこみたいにできないのかね」という社長は尊敬されない。「お前やってみろよ」と言われるだけである。
もし毎日靴ひもを結べていたのに、それがある日突然結べなくなったらどう思うだろうか、ということを想像してみればいい。かなりの自信喪失につながるはずだ。よく分からないままにマジックテープの靴に変えても「かつてはオシャレなひも靴だった」と嘆くことになるだろう。歩いていても楽しくない。
難しい言葉を使うと、今あるリソースを分析するところからはじめよということになる。多分、結構正しく認識されていないのではないかと思う。出来ているのに認識されていないということがあるはずがないと思うかもしれないが、実はそういうことは頻繁に起こりうるのだ。