さて、先日来検察改革の話が盛り上がっている。巷の議論を聞いていると安倍政権が検察改革を断行すればおそらく日本は終了する。「だが本当にそうなのだろうか」というのが今日のテーマである。
まずこれまでの議論をおさらいしたい。第一に安倍政権は「バカのための政治」なので一つひとつの行動に理由はない。その崩壊ぶりがわかるのは「法務省がいいだしたことにすれば安倍政権への批判は回避できるのではないか?」という場当たり的な言い訳である。
第一に、官邸は国民が何を不安に思っているのかを理解していない。だが、おそらく彼らにはもはや総合的に物事を考える能力はない。だから「明日の言い訳」くらいしか考えられない。
一方、野党側の指摘もおそらく間違っている。というより彼らも知っていてやっている。
安倍政権は黒川某という検察官僚とべったりであり、黒川某を検事総長にしようと画策してきたというのが野党側のプロットである。この改革が通ってしまえば安倍政権の暴かれることは今後一切なくなり日本の三権分立は根本から破壊されるであろうから、次の選挙では立憲民主党・国民民主党に入れてくださいというわけである。
実際には野党側はもう7年以上も自民党もめちゃくちゃな政権運営の問題を証明できていない。
それにしてもなぜ「野党は知っていてやっている」と言えるのか。言いがかりではないのか。
江川紹子さんが小川敏夫元法務大臣と対談をしている。小川さんは現在参議院副議長だ。江川さんの次のような発言がある。
江川:検察が事実の隠蔽(いんぺい)をしていたんですからね。指揮権を使えば、検察の立て直しができる
「指揮権」はなぜ発動されなかったのか? 元法相が内幕を語る
現在江川さんがどのようなポジションなのかはわからない。Twitterを読んだ限りいろいろお考えはあるようだがおそらく提案型の人ではない。おそらく政権が検察をコントロールすること自体には反対していないはずだ。そして立憲民主党の前身に当たる民主党政権にも政権が検察に介入すべきだという人がいたことがわかる。
背景にあるのは小沢一郎とそれに対抗する民主党内左派の緊張関係だ。陸山会事件で起訴されて「党員資格停止」に追い込まれた。小川法務大臣は検察を指導して小沢一郎の事件の捜査を強力に進めようとしたのだが野田総理大臣に慌てて制止され最終的に法務大臣の職を解かれた。最終的に小沢はこの事件では無罪になるのだが民主党政権は終わりかけていた。この文章を読むと自民党政権になってからもしばらくこの「虚偽捜査報告書」疑惑は検察庁で問題になっていたことがわかる。
現在、立憲民主党左派・社会民主党は「造船疑獄以降、検察不介入・指揮権の不行使」が民意であるというような論を展開しているはずだが、当時は全く真逆なことを言う人がいたことになる。
この議論を見て「江川さんらは首尾一貫していない」と思ったのだが、まあ言いたいことはわかる。安倍政権は巨悪であるが小川さんは巨悪を追求したと言いたいのだろう。確かにそれはその通りである。だが、巨悪を砕くための都合のいいシステムは作れない。何が民意か決められないからである。
結局この視点は「私が怪しいと思う時、怪しい側の権利が制限されるべきである」と言っているだけなのだ。これが必ずしも悪いとは思えないだが、おそらくそんな制度を作ることは不可能だ。それは法治国家の放棄である。おそらく江川さんもこのことはわかっているに違いない。
当時の民主党には「小沢一郎は怪しい」と思っていた人と「小沢一郎は怪しくない」と思っていた人がいた。政権政党なのだからそのどちらが民意である。だがそれは誰にも決められない。だから、「結果的に巨悪に仲裁する制度」は作れないことになる。民主党の失敗は「民意によって選択された」といいながら「実は統一した見解が作れなかった」という点にある。何を選択したのか国民からさっぱり見えなかった。
政治にはお芝居の側面がある。民主党も政権を取ったらお芝居すべきだったのかもしれない。
そんなことを考えながら「巨悪」について調べているとこんなWikipediaの項目を見つけた。伊藤栄樹という検事総長の言葉である。「巨悪を眠らせるな、被害者と共に泣け、国民に嘘をつくな」と訓示したそうである。検察官は『遠山の金さん』のような素朴な正義感をもち続けなければなりませんとも語っているそうだ。就任は1985年で1988年3月まで務めている。リクルート事件が1988年の6月に起こり、人々が検察が巨悪を暴いてくれることに期待したという時代だ。
「ちょっといい話」と一緒に「限られた記者たちのオフレコ会見を好んだ」とも書かれている。かなり政治的な人のようだ。つまり、表向きは庶民の味方、正義の味方を強調しながらも実際はそうではなかった可能性があるということである。検察はもともと「お芝居」なしに存続できない組織だった。
おそらく検察はロッキード事件あたりから「巨悪に対峙する正義の味方」という自己演出をして政治との距離を取ってきたのだろう。マスコミを巧みに使って民意を味方につけていれば「検察権力を政治に取り込もう」という人たちと対決することができる。
今回の改革案に反対するOBたちの声明の中に「ロッキード世代」という言葉が出てくる。「巨悪に対峙する検察」という自己像を持っていた時代の古めかしい言葉である。昭和は遠くなり巨悪を追求する検察という自己像も過去のものになった。
最初の「検事調書改竄事件」は結局「担当検事の田代さんは白とは言えない」というすっきりしない解決になってしまったようだ。つまり、官僚組織というのはすべからく身内の恥は隠したがるものであり、検察もまた官僚組織なのだ。
法務省と検察の関係は防衛省と自衛隊の関係に似ている。つまり官僚組織と実行部隊が分かれている。法務省は検事総長が一番「えらいこと」になっているという実行部隊優先の組織である。あるいは法務省は知っていて政治に泥水をかぶらせたのかもしれない。今回の問題が大きくなるきっかけの一つが山尾志桜里さんの質問なのだが、実はこの人も検事出身なのである。
法務省に政権に対する抵抗勢力がいることをうかがわせる話だが、仮に「防衛省が自衛隊のトップの人事について具体的に内閣に具申した」となったら人はどう思うだろうか。現在の安倍政権はそれがわからなくなるくらいバカになっている。そろそろ取り替えどきだろう。
Comments
“結局、検察には民意が効いたほうがいいのかそれともよくないのか” への2件のフィードバック
検察人事をどうするか?という入口の問題をそれだけで解決するのは難しいと思います。
むしろ、検察の捜査を如何に透明化し、監督するか?を検討すべきかと思います。
捜査、立件にあたってのデュープロセスの明確化と、それに伴う取調べ可視化と証拠開示が必要かと思います。
検察の恣意的な不起訴に対しては検察審査会の公開と透明化を進めるべきでしょう。
この辺りをギュウギュウに縛ると、誰を検事総長にするか?法務大臣の指揮権をどうするか?という議論はかなり違った方向に行くと思います。
コメントありがとうございます。実は一番大きな問題は「そもそも議論が始まらない」ことにあるんですよね。なので「現在の秩序を壊す」か「それを非難するのか」という二者択一にしかなりません。時計を壊す議論はできるが新しい時計を組める人が誰もいないんです。