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明治政府はなぜプロイセンの憲法を模範したのか

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最近ドイツ帝国について調べている。最初のきっかけはなんだったのか忘れてしまったのだが、調べているうちに「明治政府がなぜプロイセンの憲法を模範したのか」ということが気になった。もう少し調べてみて「おそらく明治政府は欠陥も含めてコピーしたんだろうな」と感じた。

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プロイセンはドイツのナンバーツーだったところから出発してドイツを統一国家に成長させた。その途中でヨーロッパ列強からの妨害をはねのけている。当時、不平等条約に悩まされていた日本にとっては憧れの成功事例に見えたのかもしれない。

もともとドイツ連邦の盟主はオーストリアだった。ところがドイツは最終的にオーストリアを排除して帝国を形成する。教科書では多民族国家(大ドイツ主義)ではなくドイツ人国家(小ドイツ主義)が選択されたということになっている。

オーストリア帝国はドイツ以外の民族も抱え込んでいる。ナショナリストは「ドイツ人だけの国を作ろう」と主張していたようだ。

さらにドイツでは自由主義が台頭し始めていた。1848年ごろから自由主義者が台頭し始め1850年にプロイセンも立憲民主制になった。

1862年にビスマルクがプロイセンの首相になったときできたばかりの議会と国王は対立していた。国王は軍隊を指揮しており軍国主義の国を作ろうとしていたが議会は予算を成立させなかった。当時の憲法では、衆議院・貴族院・国王が妥協して予算を作ることになっていたのだが「不成立の時の決まり」がなかったそうだ。国王は一旦退位して軍事クーデターを起こすつもりのようだったがビスマルクは憲法の不備を突く形で「無予算統治」を行いオーストリアとの戦争に勝利してしまう。

自由主義者はナショナリスト(つまりドイツ以外の民族を連邦から排除したい)人たちだったのでオーストリアは敵だった。ビスマルクは自由主義者を味方につけオーストリアを排除することでドイツの主導権を握った。まずは北ドイツを統一し連邦を作り、フランスとの戦争にも勝利して南ドイツを味方につけ1871年にドイツ帝国が成立した。明治維新が1868年なのでドイツ帝国の成立と時期が非常に近い。

ドイツ帝国憲法は皇帝の権限が強いことになっているのだが、実際のドイツ帝国は自由主義者との妥協の上に作られている。また、ドイツ皇帝はプロイセン国王を兼ねていて自前の軍と領土を持っていた。つまり、日本が模倣した憲法は外見と内実が違っていた。このあいだをつないでいたのはおそらくビスマルクの個人的な資質だろう。

1871年にドイツ帝国が成立してから1918年にドイツ帝国がなくなるまでに50年弱しか経っていない。ほんの短い間しか統治しなかった二代目を挟んだ三代目が植民地獲得に動き、最終的にオーストリア・オスマンと組んで自滅してしまう。

結局、日本もドイツ帝国憲法の悪いところを引き継いでしまったことがわかる。日本も清やロシアとの戦争に勝ち軍隊への期待値が高まってゆく。しかし軍事費は拡張する。議会と内閣はこれを牽制しようとした。これを調停すべきなのはおそらく天皇だった。だが、天皇には実権がない。なぜならば天皇はプロイセンのような自前の軍隊と領地を持っていなかったからである。最終的に軍部と議会は何も決められなくなり最終的に議会が空中分解し体制翼賛体制が作られた。

さらに日本では陸軍と海軍の間に協調体制がなかったようだ。陸軍は中国大陸の経営に集中したかったようだが石油の輸送路を確保したい海軍側があとのことを考えずに戦線を拡大した。海軍と陸軍が協力して問題を解決しようとした形跡はあまりないそうだ。

おそらく立憲主義が成立するためには二つの要素が必要だ。それが制約集約(つまり政党制度)と暴走を相互牽制するチェックアンドバランスである。国民(市民階層)・地方・君主・軍隊との間には緊張関係があり利害が一致しない。

ドイツは急速に国家統一を急いだために政党政治がもつべき政策集約と立憲主義がもつべきチェックアンドバランスという二つの性質を持てなかった。これが経験が蓄積したイギリス型の憲法と違っているところである。1918年に作られたワイマール憲法もこの悪い癖を引き継いでしまう。皇帝に代わった大統領の権限が強く比例代表制の議会はなかなか政策的にまとまれなかった。ただ、民選大統領には政治的基盤はない。

ワイマール憲法は各領邦を州に格下げし(つまり地方の権限を低下させ)て中央集権の強い国を作ろうとした。また自由主義の観点から人権規定が多かったとされている。また男女20歳以上の普通選挙を実施した。首相の任免は大統領の権限であり軍隊も大統領直属だった。これは皇帝に似ている。

ワイマール憲法では、まず人権制限が起こり、議会の権限停止によって市民階層が抑圧され最後に大統領が首相に権限を譲る形でヒトラーに大きな権限が与えられた。混乱状態を演出したナチスドイツは「新しい憲法を作る」と言って首相に権限を集めたものの憲法は作らなかった。明文化された基準を示さなくなりヒトラーの暴走を誰にも止められなくなってしまう。

チェック体制を失ったドイツはこうしていったん破綻をしてしまうのである。これが緊急事態条項の恐ろしさである。「緊急事態」とは憲法が想定しない事態を解決するための例外的な処理なのだが、そもそも憲法が想定できない事態があるということは統治文化に問題があるということである。

日本のように総理大臣が緊急事態条項の必要性を声高に叫び具体例をあげないというのはかなり危険なことなのだ。つまり、憲法では国が統治できないと言っているのだが、なぜ統治できないかは言わない。おそらく自民党は2009年に下野した時点で昭和憲法体制から精神的に逸脱してしまったのだろう。つまり、自民党は民意を失ったことを知っており、民意の代わりになる統治根拠を求めているのである。

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