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意外と複雑な日本語の母音体系とアクセントの広がり

先日来日本語の由来について勉強している。前回は九州の言語と東北地方の言語が二つのセンターを作っていて日本語に影響を与えているという話を読んだ。今回はその続きだ。

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最初に注目したのは日本語のウの発音である。実は日本語のウには二つの流れがある。西日本は「u」のように唇を丸めて発音するが東日本は「ɯ」のように発音する。韓国人がこの二つのウを聞くと違う音に聞こえて戸惑うそうである。

ところがこのɯは厳密にいうとɯではない。日本人は舌の位置を気にして母音を発音しない。例えば「ア」の音には舌を前に出すaと舌を後ろに下げるɑがあるが日本人にはどちらも「ア」にしか聞こえない。舌の位置を気にする人たち(例えば韓国人や英語を話す人たち)は複雑な母音を使うが日本人はそれほど母音にはこだわらない。

さらに東北地方ではイとウの音が近い音になる。イは口を狭くして舌を前に出しウは舌を後ろに引くとされているのだがこれがどちらも曖昧になるからである。中舌化というそうだ。日本語のアと同じことが起きている。このことから関東から東北にかけて同じ傾向があり奥に行くほどその傾向が強まっていることがわかる。

これがアイヌ語と似ていれば「東北はアイヌ語の影響を受けているのだ!」と言えるのだが、アイヌ語はウの位置がオに近いそうである。これは口の開き方の違いなのでアイヌ語と東北語とは違っている。つまり、東日本系の人はこれ以上北上できなかったか定着できなかった可能性がある。樺太に行くともっと複雑な母音体系(母音調和がある)を持った人たちがいる。

東日本語が西日本語と接触しているところではかなり複雑な変化が起きている南関東の西関東方言では中舌化が起きないことから、西関東方言は西日本言語の影響を受けた東日本語のようにみえる。

この間に無アクセント地帯がある。無アクセントは二つの異なる言語が接触する中で起きているのではないかと思える。だが、無アクセント地帯の場所が中途半端だ。

NHKの「日本人はどこから来た」には三内丸山遺跡について扱った回がある。三内丸山では栗栽培が盛んで栗や漆を求めて糸魚川あたりと翡翠交易をしたことがわかっているという。このころの交易回廊が日本海沿岸だったとすると日本海の言語と東北の言語がつながっている可能性はある。そうすると現在表日本ということになっている太平洋側は裏の後進地帯だった可能性があるわけで、無アクセントというのは「最後まで言語が到達しなかった」可能性を示唆しているのかもしれない。

今の霞ヶ浦と印旛沼のあたりは昔は内湾だったので犬吠埼あたりが本州の最辺境だった可能性があるわけだ。太平洋側は黒潮の流れがあるので紀伊半島から房総半島まではつながる。だが黒潮は北上しない。方言のつながりは意外と古くからの人のつながりを保存しているのかもしれない。

同じように考えられる地域がある。それは九州だ。九州には西日本型のアクセントと南九州型のアクセントがある。この地図には書いていないが福岡市周辺と壱岐は特殊なアクセントになっている。そしてその中間にアクセントを失った地域がある。これは佐賀県、筑後地方、宮崎県にかけて広がっている。

このことから九州の南部には最初から人が住んでいて鹿児島から天草に北上し島伝いに長崎まで展開した可能性がある。彼らが西日本型の言語を受容する過程で独特のアクセントを獲得したと考えることができる。そしてその間にはアクセントが曖昧な無アクセント地帯が緩衝帯のように広がっている。

九州から北上すると韓国語の慶尚道方言がある。韓国語は日本語と比べると複雑な母音体系をもっておりアクセントがない。ところが慶尚道にはアクセントがある。また어と으が曖昧母音化するそうである。なお朝鮮語は中世にはアクセントがあったそうだ。これももともとアクセントを持っていた言語が他言語と接触することで無アクセント化したととらえることはできるかもしれない。北部が地続きになっている朝鮮半島では日本列島よりも苛烈な言語接触があったことだろう。

ここに一つ大きな謎がある。それが関西方言である。この図はかなり簡略化されているが、関西方面に大きな塊がありそれが四国方面に伸びている。四国には小さいながら無アクセント地域もある。これを考えると関西に独立した勢力があり九州語とは逆に東から西に向けて展開して行ったものと考えられる。入り口は日本海側の敦賀か瀬戸内海の大阪である。この関西語が展開できなかったところがある。なぜか奈良県南部と三重県南部には東京型のアクセントが見られるそうである。関西の一団は海と平野は得意だったが山の中には進行することができなかったということになる。

このモデルを説明しようとすると次のようになる。

  • 東日本と南九州には在来の人たちがいた。
  • 北部九州から展開した人が南と東に展開して南は琉球諸島の端まで到達し、東では東北地方にまで到達した。
  • そのあとに関西地方を起点とした塊がやってきて西は四国にまで展開した。東は海産物が豊富に取れそうな伊勢志摩地方にまで広がった。北部でも海産物を求めて北陸地方に間で展開した。だが一部山間部にはひろがることができなかった。

東北型の言語が島根と鳥取の県境地帯に残り、奈良県南部と三重県南部には在来型の言語が残った。十津川村には東日本から落ち延びてきた落ち武者が東日本方言を広めたという想像をする人がいるそうだ。房総半島にも白浜や勝浦といった紀伊半島と同じ地名があるがそこで関西方言が話されているというのは聞いたことがない。

母系がわかるミトコンドリアDNAでみると日本にはアジア各地からやってきた人たちの痕跡が残っているそうだ。父系がわかるY染色体でみると、大陸系(O)が50%程度だが在来系(今はチベットとアンダマン諸島にしか残っていないDというタイプがある)が30%から40%ほどになるという。まずDが南下し、そのあとでOがDを駆逐する。台湾から太平洋に広がったオーストロネシア系もO系統だそうだ。このほかHLAハプロタイプからは大陸からの人の流れが数回あった(ないし別のところから流れてきた)ことがわかるそうである。

このことから、大陸からD系統がやってきてから日本が大陸から切り離され(あるいは海峡が広がり)そこである程度の長い時間をかけてプロト日本語が形成された可能性はありそうだ。彼らは結局大陸アジアの言語と生産技術(つまり稲作)を獲得するわけだが発音まではうまく受容できなかったのかもしれない。だが発音受容にも段階があり母音の発音とアクセントにその痕跡が残っているというところまでは何となく想像ができそうだ。

日本には現代的な言語を獲得する以前の人たちがすでに住んでいて文法は受容できたが発音までは変えられなかったということになる。このプロト日本語が作られるのに十分な時間日本は周囲から切り離されてきた時代があるのだろうということも想像ができる。

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