グテーレス事務総長が日本などを名指しして二酸化炭素の思い切った削減をするようにと訴えたそうだ。NHKによると名指しされた国はアメリカ、中国、インド、日本、ロシアである。グテーレスさんがヨーロッパ対非ヨーロッパという構造を作り出そうとしていることがわかる。「国連も敵を作り出さずにはいられない政治的緊迫がある」と思った。そして彼らが見ているのはヨーロッパであってそれ以外の世界ではない。
そのうえで、「主要な排出国であるアメリカ、中国、インド、日本、ロシアが、2050年には排出量を実質ゼロにすると、ことし11月までに約束することが極めて重要だ」と述べて、主要な排出国を名指ししたうえで、11月にイギリスで開かれる地球温暖化対策を話し合う国連の会議、COP26までに対策の強化を表明するよう改めて求めました。
国連事務総長 日本など名指しで温暖化対策の強化を求める
このブログでは環境問題を「外敵排斥の為に作り出された運動」と置いている。リベラルと言われる善意に価値を置く人たちはそのままでは外的排除は言い出せないので「未来志向」を持ち出した。それが現在の環境問題だ。その頑なさは動物愛護が源流にある反捕鯨運動を見ればよくわかる。あれはもはや動物愛護の名を借りた夷狄排除運動だ。
もちろん実際の地球温暖化や気候変動などないというつもりはないが、運動体そのものは利用されているだけだろう。実際の背景は不安の転嫁なので科学的エビデンスなどをもとに「議論」しても議論にはならないだろうと思う。ポインティングフィンガーなどというが屈服するか敵として利用されるかの二択しかない。グレーテスさんは子供を使ってこの運動を盛り上げている。なかなか考え抜かれた戦術だと思う。
国連の図式は割と簡単だが、実際にはもっと複雑なことが起きているようだ。コロナウイルスの拡大とともに東洋人排除の動きが広がっている。21世紀の黄禍論だ。キリスト教圏の人間は自分たちだけが人間であり外の世界は災に満ちていると考えている。だが普段は理性や人権といった新しい理念が黄禍論の表出を防いでいる。コロナウイルスによる東洋人排除の運動はおそらく新しい問題ではないのだろう。
顕在化のきっかけはあった。2015年頃に南から上がってきた非ヨーロッパ系の移民だ。ヨーロッパはおそらく移民の統合に失敗したのではないかと思われる。豊かでない地域では右派ナショナリズムがおこりイギリスはEUから離脱した。半島であるヨーロッパは大陸部分から様々な外敵が入ってくるがこれを防ぐことができない。これを包んでいる精神的城壁がおそらく「キリスト教」なのである。
多くの人はいち早く外敵排除の右派ポピュリズムに乗ったが、左派的で人権を信じているような人たちには長年の「人権が大事」という刷り込みがあり、これにやすやすとは乗れなかったのだろう。そこで、移民を災害に置き換えて合理化を図ったのではないかと思われる。この見立てが当たっているかはわからないが、もし当たっているとしたら環境運動は現在の十字軍のようなものになるだろう。ビーガンはおそらくその信仰告白だ。ドイツではビーガンが再び流行しているのだという。人々は聖書を読む代わりに豆腐を食べるのだ。
そしていま来ているのは「第2の波」ともいえる動きだ。関心の高まりについて、ビガニュアリーのレーベルグCEOは「ますます多くの人が、自らの消費行動次第で環境負荷を減らしたり、動物が苦しむことを緩和したりすることにつながると認識し始めている」と分析する。第1の波では、健康志向や動物愛護からビーガンになる人が多かったが、第2の波はそれに加えて温暖化対策という要素が強くなっている。
豆腐が消えた!? ドイツ、ビーガンに第2の波
スウェーデンの高校生グレタ・トゥンベリさんが18年に始めた気候変動デモ「フライデーズ・フォー・フューチャー」はドイツでも盛り上がっており、ビーガン拡大にも影響を与えた。ドイツの調査会社、シュタティスタによると、ドイツのビーガン人口は19年にドイツ人口の4%に相当する280万人に増え、今なお拡大を続ける。
「環境問題が悪い」というつもりはない。おそらく源流にあるのは1980年代のチェルノブイリに端を発する放射能への恐怖だ。このときヨーロッパはこれを理知的に捉え理知的に解決しようとした。ウルリヒ・ベックが推奨したリスク社会の現状認識と解決策はおそらく今でも通用するだろう。だが人々は理性的なソリューションを好まないし大衆運動としては広がらない。
おそらく今の環境問題は反原発に源流がある。だから日本人がいくら「脱炭素のために原発を」などと言っても相手にしてもらえないだろうし、もともとの動機がヨーロッパのポインティングフィンガーであるならば「これまでも削減してきた」などと説明しても相手にしてもらえないに違いない。所詮我々はキリスト教社会という精神的外壁の外にいる夷狄である。
注目しているのは、ヨーロッパと非ヨーロッパのどちらが正しいかというようなことではない。感情によって引き起こされた運動とそのリアクションである。分裂に向かって進んでいるとしたらおそらく日本人はヨーロッパからのこの敵意に対して愛国主義的なリアクションを起こすに違いない。しかし、長年の西洋コンプレックスもありそれは屈折した運動になるだろう。
国会の答弁を聞いている限り、環境大臣も総理大臣もこのことをあまり受け止めきれていないようだ。環境大臣は爽やかな笑顔で毒にも薬にもならないことを詩的につぶやき続けており、総理大臣は「非連続のイノベーション」というおそらく本人もわかっていないであろう呪文を唱えていた。日経新聞のこの記事を読むとどうやらお得意の「やってます感」の演出である。
最も怖いなと思うのが、外から来た排斥運動が愛国主義的なリアクションを生み、憲法改正などの「脱人権的な」動きにつながることである。そもそも屈折から始まった運動がさらに屈折を生めばいったい何を解決しようとしているのか誰にもわからなくなる。
これはおそらく「人権が抑圧されて息苦しくなる」というようなことにはならないだろうが、合理的な政治理念に代わって過去の経験にのみ裏打ちされた道徳理念が社会を支配することになりかねない。それは「日本は世界から尊敬されている」という幻想に閉じこもり「わからないことは受け入れない」という頑なで息苦しいに社会を生み出すだろう。
我々の生活はかなり多様化してしまっている。終身雇用も標準家族も過去のものになっている。だが、新しい働き方も家族のあり方も見つけられていないし、すべての人が終身雇用によって守られていてサザエさん的な家庭を持てるような回復の手立ても示されていない。
おそらく道徳によって支配された社会というのは問題をなかったことにするような社会だろう。端的に言えばサザエさん的な家庭を持てなかった家をなかったものにするという精神的孤児を大勢生む社会だ。その中で「正解から排除された人たち」にはどこにも行き場がない。いくらユニセフやユネスコに頼ろうとしても「十字軍」でうめつくされているのだからもはや頼りにはならない。
おそらく我々はかなり追い込まれているのではないか。何の支援もなく、何が起きているかもわからず、それでも自分たちの正解を見つけ出すまで煩悶から抜け出すことができないという社会になっているのである。