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環境問題はなぜ急進化するのか

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コロナウイルスによる新型肺炎が世界中に広がっている。そんななか「アジア人差別」がヨーロッパで蔓延しているという。全部のアジア人がヨーロッパでも差別されているということではないのだろうが、一部心ない声をかけられるということが増えているようである。これを見てヨーロッパで環境派がなぜ先鋭化するのかということがわかったと思った。結局は環境問題も未来派を偽装した外的排除の動きなのだ。

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中国湖北省武漢市付近で発生した新型コロナウイルスはかなりの勢いで世界に広がっているようだ。広がっているのはウイルスだけではない。おそらくはウイルス関連のニュースの方がひどい勢いで広がっているのだろう。WHOが懸念した通り各国が中国からきた外国人を追い返すという動きを見せている。おそらく人類の歴史は疫病との戦いだったわけで同じようなことは21世紀になってもなくならないのだ。

そんな中、本来は武漢からきたわけではないアジア系外国人への差別が起こっているという。難民が南から押し寄せたときにイスラム系を差別する動きが起きたのと同じことが起こっていることがわかる。多くの人が潜在的な差別意識を持っていてアジア人という理由で差別しているのである。おそらくは何らかの怒りをぶつける対象として被差別者を探している。あるいは最初からよそ者に対する警戒心を持っていたのかもしれない。

その背景にあるのはおそらくは合理性を超えた怒りの感情かもしれないし、自分の生活が苦しいことに怒っていてその怒りの矛先を移民や東洋人に向けているだけなのかもしれない。あるいは政治的正しさが本能的な恐れを抑圧していただけという可能性もある。危機の状況はこうした綺麗事を見事に吹き飛ばす。

ヨーロッパは歴史的な背景もあり「多様性」を尊重する政治的風土を発展させてきた。どうやっても異民族が排除できないからだ。だから、理性で本能的な外敵への恐怖を押さえつけていたようなところがある。ところがそれが社会的正義になると「多様性を大切にしない人たちへの抑圧」となって動く。

このメカニズムは意外と複雑だ。以前、BREXITの背景にはイギリスに入ってきた移民への差別感情があると書いたのだが、IDE-JETROがこんな分析をしている。移民を定着させるための法体系が英米と大陸で違っていたのだが、EUが間に入ることで英米法が大陸法に抑圧されていたというのである。法律の背景には文化に根ざした考え方の違いがありこれが最後まで折り合わなかったという分析である。

外から来る災厄を避けたいという気持ちが蔓延していたのだろうが、それを表立っていうことは許されない。するとその攻撃性に何かの皮をかぶせて偽装する必要がある。それが「ポリコレ棒」である。ポリコレ棒とは政治的正しさで相手を叩くことだが、自分の攻撃性を正義で正当化している。ゆえにこれは先鋭化しやすい。いくらでも相手が叩けるし、叩いても本来の目的は達成できないからである。

社会的な不平等をなくそうという社会主義が退潮しその代替として環境主義が台頭してきたことを不思議に思っていた。しかし、環境問題も外からくる災厄という意味では移民や病気と変わらない。

おそらく最初の環境問題はチェルノブイリなどの放射性物質だろう。ウーリッヒ・ベックの「危険社会」の中では「誰もが平等にリスクを抱えるのだから社会が協力してこれを防がなければならない」と指摘した。これが1980年代の話である。

理想主義によって作られた未来予想図は得てして実現しない。ベックが考えるような理知的な運動が大衆運動として広がるとは考えにくい。にもかかわらず環境問題は未来志向の新しいイデオロギーと呼ばれてヨーロッパを席巻している。国連のグレーテレス事務総長はグレタ・トゥーンベリさんをスターにして採用し盛んに環境問題を支持する人たちを国連に引きつけようとしている。つまり、グレタさんはポリコレ棒として利用されている。

実は日本でもこの環境問題を取り入れようとしている人たちがいる。小泉環境大臣が日本で評判になったことから「ヨーロッパでは環境問題が美味しいらしい」と気がついた自民党議員が多いようだ。国会でも盛んに取り上げられるようになった。ただ、安倍総理は盛んに「不連続のイノベーション」などと答弁しており「きっとこの人は分かっていないんだろうなあ」と思わせる。日本ではポリコレ棒は真綿で包まれて無力化される。あとは野党が音は派手だが痛くはないピコピコハンマーを持ち出して相手を儀式的に叩くだけである。外敵がおらず恐怖を転嫁させる必要がない日本人には環境問題はよく理解できないのかもしれない。日本人は外から入ってきたものを災厄とは考えない。

地球温暖化は現実の危機であり実際に解決が必要とされる真面目な問題であることも確かだが、移民排斥やウイルス(東洋人)排斥の動きをみると環境問題も一種の排斥運動である可能性があると思う。人権を広げるという理想主義よりも排斥の方に人々が熱心になっているということから実は同根の現象であるといえるのかもしれない。

もちろん環境問題について考えることがいけないことだというつもりはないのだが、おそらくこうした排斥運動は非合理的な感情に根ざしている分急進化しやすいだろうなと思う。キリスト教文化の外から災厄が降ってくるという恐怖心を少なくともヨーロッパの人は根強く持っているらしい。サミュエル・ハンチントンは「文明の衝突」などと言ったが、衝突しているわけではなく実はキリスト教文化圏の人が勝手に外の世界に恐怖心を持っているだけなのではないだろうか。

日本人は将来不安を「力強さ」という偽りで覆い隠そうとしている。おそらくヨーロッパは彼らが本質的に持っている不安を「進歩と未来志向」という偽りで覆い隠そうとしているのだろう。日本もヨーロッパもこれが偽りであるということを知っている。だから日本人はより力強くという方向に急進化するのだしヨーロッパは「未来志向」を急進化させるのだ。

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