ざっくり解説 時々深掘り

<子ども>のための哲学

ということで、<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネスを読んだ。永井均さんは「哲学をする」と、「哲学を鑑賞する」ということを分けて考えているようだ。そして「人の考えていることは分からない」という考えを明確に持っている。金沢真大事件に触発されて読んだのだが、別の意味で意義深かった。この本の言わんとしているところは単純で、自分の問題について考えざるを得ないという衝動を持った場合には、とことん考えてみようという主張だ。
彼が主張する哲学の秘訣は「自分自身がほんとうに納得できるまで、決して手放さないこと」ただそれだけだ。これは哲学だけではなく、いろいろな答えのない問いに当てはまるように思える。一文のトクにもならないことを考えざるを得ないと実感している人たちには心強い応援になるかもしれない。
この本よりも興味深かったのは、「なぜ人を殺してはいけないのか?」の小泉義之さんの困惑だった。形勢はあきらかに小泉さんに不利だ。というのも、永井さんは「考えによってはいいとも悪いとも言える」という結論と分離した立場にいるのだが、小泉さんは最初から「殺人はいけないことで、そうしないと大変なことになってしまう」と考えている。
この考えが彼らのポジションに現れる。

  • 永井さんは「つまり私は、人を殺してはならないという社会規範を一般的には破壊することによってのみ、その社会規範を自らに受け入れることができる。」と主張する。
  • 小泉さんは「他人が洒落た回答をしなかったら、他者が応答することすらできなかったら、あなたはどうするつもりか」と反論する。

とりあえず「洒落た」といっているあたりに、そこはかとない劣等感すら感じてしまう。そして「どうするつもりか」と感情的な反論をしてしまうのである。
もちろん、私は人に殺されたいとは思っていないし、今の所人を殺したいと考える予定もないので、社会は殺人を容認しない方がいいと思っている。永井さんの数式にも似たロジックを読んでみたが、よく分からなかった。
今日読んだ別の本に「ヤノマミ族」があるのだが、前にも書いた通り、ヤノマミ社会には報復としての殺人が存在する。殺された場合もそうなのだが、漠然とした不安(病気や事故で人が死ぬと、呪われたと考えるのだ)から報復合戦に発展する場合がある。殺人が容認された社会は実際に存在するのだ。つまり、我々の社会は殺人の連鎖に陥る危険を現実の問題として抱えている。これを認識した上で、それでも殺人はよくない(ないしは嫌だ)ということを互いに納得させつづけなればならない。
皮肉なことに「人を殺してはいけない」という点に固執すると、逆にここから先に進めなくなってしまうわけだ。小泉さんはこの論点に近すぎて、却って結論から遠ざかってしまっているように思える。


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