吉本興業の芸人たちが「反社会勢力とつながっている」として一斉にテレビから締め出された。今日はこれについて考える。
もともと、反社会組織と芸能界にはつながりがあった。つながりがあったというより一体だったと考えられる。吉本興業と山口組に100年のつながりがあるという記事を見つけた。これを読むと「興業」と「反社会勢力」がつながっているように思える。だが、実際には反社会勢力の前身は興業もやっていたし労働組合のような色彩も持っていた。共産主義というイデオロギーと結びついた過激な労働運動は鎮圧されたが、イデオロギーとの結びつきがない方はいわゆる「虚業」と呼ばれていたサービス産業と結びついた。
「食えない職業」になったヤクザという記事に神戸芸能社という記述が出てくる。
傘下組員にも土建、港湾荷役、金融、不動産などの会社を興させたことで、山口組は暴力装置を持つ企業集団となった。そして、双方を組み合わせて巧みに全国制覇に乗り出す。50年代以降その道具となったのは、神戸芸能社の看板スターの美空ひばりであり、田岡三代目が日本プロレス協会副会長として「西の興行」の面倒を見た力道山だった。
「食えない職業」になったヤクザ
美空ひばりの名前があるが神戸芸能社が面倒を見ていたのは美空ひばりだけではなかった。お笑いだけでなくプロレスのようなスポーツ興業も音楽も暴力団と完全に切り離しはできなかった。例えば昭和のレコード会社にも「反社対策」の人たちがいて「その筋の人たちとの調整」を担当していた。地方興業の調整もイベントも「そういう人たちのとの関係」なしには成立しなかったのである。
これが変わっていったのは、芸能がスポンサーの広告によって成り立つようになったからのようだ。つまりテレビの登場によって表の企業と結びつくことでテレビもまた「身綺麗にする」ことを求められるようになったということになる。今回も、アメトーーク!から「きれいな」スポンサーが撤退している。企業はSNS経由で炎上するのを恐れたのかもしれない。社会の不満が悪者叩きに向かいかねないことを企業とテレビはよく知っているのだ。
かつての芸能界はこの辺りをきっちりと分けていたようだ。
なべおさみが「ヤクザと芸能界、全部バラすぞ!なべおさみが見た昭和の大スターたち」という記事を書いている。映画のスターたちは反社会的なつながりが表に出るのを嫌って私生活を表に出さない人たちがいたのだという。映画からテレビの移行期には、テレビのカタギの人たちに迷惑をかけないように、テレビではカタギのふりをしていたということになるだろう。
テレビでは木村太郎が「歌手をお嬢と呼ぶことがその筋の人のステータスになっていた」と言っていた。アナウンサーたちは木村太郎が美空ひばりを名指ししたとは思わなかったようだが、ある世代の人たちにはそれが誰のことなのかがすぐにわかる。
テレビが大勢の芸能人を抱えるようになると、芸能界はクリーンになった。チケット販売も「近代化」され地方の興行主に頼らなくても興業が行えるようになった。こうして芸能界は「普通のサービス産業」になったかにみえた。
しかし、こうした芸能界の出自は時々ヒョッコリと顔を出す。島田紳助が芸能界からいなくなったのは2011年のことだそうであるが、今回もまた同じようなことが起こった。
今回の吉本新喜劇の件は、テレビが抱えられなくなった芸人がかつていた場所に戻っていったというだけの話でもある。もちろん、テレビではなくYouTubeなどのインターネットメディアに進出する人もいるが、先祖返りする人もまた多かったのだろう。だが、SNSによって緊密に結びついた時代にはかつてあった「優しい隙間」はないので、彼らはそれが露見すれば消え去るか忘れてもらうまでいなくなるしかない。
この間吉本興業は近代化に向けた何も努力をしなかったし、これからもしそうにない。吉本興業の会長は遠く離れたバンコクで記者に「教育が悪かった」と語ったそうだ。つまり彼らは一切変わるつもりはないということである。お笑い芸人に依存する以上テレビもこれ以上の追求はできないだろう。
吉本興業がやったのは「研修」と「禁止」だけだ。生活を保障するギャラを払わず契約書もかわさないという前近代的なやり方は残り続け、それを誇らしげに語る芸人もまだ多い。千原ジュニアさんの言い分を認めると「労働契約を交わしてしまうと生活保障をしなければならなくなる」からなのだろう。
千原の発言は芸能界全体の意識の低さを表している。生活保障をしないで「頑張って真面目に乗り切れ」と個人の資質の問題に落とし込んでしまい、問題があった時には「個人が悪かった」といって切ってしまう。日本の悪いところが全部出ている対応だ。そして千原はそれを「外資の参入障壁になっていて好ましい」とまで言い切っている。成功者の部類に入る人は知らず知らずのうちに旧体制を擁護してしまうのである。
もともと芸能人は「こうした意識の低い人たちなのだ」と考えて、芸能人をみるということも可能なのだろう。ただ、最近ではそうもいかなくなっている。お笑いタレントの方が「身近で視聴者目線で」政治を語れるというような風潮もあり、テレビ局に代わって正義の側にたちに社会罰を下す代理執行者の役割を担うことも増えている。
このためテレビは表向きの清廉さを演出するためには「かつていた場所」に戻ってゆく人たちを切り離すか「なかったこと」にし続けなければならないのである。