言ってはいけない!「日本人の3分の1は日本語が読めない」という記事を読んだ。OECDの調査によると日本人の1/3は単純な論理構成の日本語ですら理解できないというのだ。
一瞬日本人バッシングのように思えるのだが、読み進めて行くと実はOECDの中ではまともな方だと書かれている。叩こうと思って叩けないという一種釣りの文章になっている。この記事によると、先進国でオフィスワーカーとしての「知的レベル」を維持しているのは1/2程度なのだそうだ。
この文章は本を売るための構成になっているので、この「知的レベル」が何を意味しているのかということは一切見えてこない。例えば、それが生得的なものかが分からず、したがって学校教育で補正可能なのが分からない。さらにこの「オフィスワークに向かない読解力」が何を意味しているのかもわからない。
なんとなく見えてくるのは、仮説立てをしたり条件分岐によるような判断ができない人が相当含まれている可能性だ。なので他人と接するときには結論だけ言ったほうがいい。ごちゃごちゃ言っても相手は理解してくれていない可能性が高い。
ただ、そうだとすると政策の比較検討も難しいということになる。そうなると「政権選択のための二大政党制」などそもそも最初から成り立たない。つまり、普通選挙による民主主義でマニフェストベースの選挙が成り立っているとすると、それは成り立っているように見せているだけなのだ。
だが、多分普通選挙の意味は政策にはない。イギリスの総選挙事情について調べたことがあるのだが、イギリスは次のような経緯で普通選挙が実施されている。
- ラッダイト運動が起こる。
- 極刑で罰しようとしたが運動はおさまらなかった。
- 労働者を中心にした政治参加運動(チャーチスト運動)が起こる
- 労働者を政治体制に取り込むために選挙権が拡大され、チャーチスト運動が鎮圧される。
- しかし普通選挙にはならなかった。
- 結局第一次世界大戦がおこり、この戦争のもとで男子普通選挙が実施される。
日本でも言えることだが、限定的な選挙制度のもとで競争が膠着すると「未開拓の人たちを取り込もう」という動きがおきる。イギリスの場合にはソ連化の恐怖もあり、それが選挙権拡大に結びついた。
いったん普通選挙で多くの国民が政治に取り込まれると、政治の目的は「政治についてはわからないし合理的な判断もできないであろう」人たちを<管理>して体制下に置き続けること必要が出てくる。つまり、普通選挙による政権選択というのは表面上のことであって、そもそも「普通の人たち」を体制下に押しとどめておくための仕組みなのだと言える。
ゆえに衆愚政治でも「裏で適切な政策管理がされている場合」には、誰が政権を取っても構わないのだということになってしまう。政治的には全く正しくない危険な考え方なのだが、積み重ねるとそうなる。
日本の場合も似たような動きをしている。もともと明治政府は限られた人たちの集団指導体制だったが、軍の財政負担が拡大し社会主義運動なども起こった。そこで選挙権を拡大することになる。
議会は軍隊を予算で抑えようとしたが、二大政党が競争をしてまとまらず、結果的に軍の大陸拡張を追認する。終戦を挟んで官僚主導政治が復活するがやがて政治主導が唄われるようになり政治主導になった。しかし、政治主導とはこの文脈では衆愚主導だから再び暴走しようとしている。
アメリカも同じように動く。アメリカの二大政党制は未開拓な政治勢力の取り込みを軸に構成されている。最初に取り込まれたのは黒人であり、次に取り込まれたのはスペイン系だった。さらにトランプ大統領は「忘れ去られていた人たち」を取り込んだがここで衆愚化した。民主党はそこまで思いきれないので、今でもエスタブリッシュメントと社会主義的な政策を求める人たちの間で分裂している。
民主主義をうまく機能させるためには、未開拓で政治的に未成熟な人たちに「あたかも政治に参加している」ような感覚を与えつつ体制側に取り込む必要があるということになる。そのためには国は分配できる余力を保つために成長しつづけなければならない。そのためには、単純に記述された政策と短期的な支払いが必要だ。それ以上のことは理解できないし、理解させる必要もないということになる。そして「おすそ分け」ができなくなると民主主義体制は混乱するのだ。
皮肉なのは、この民主主義体制が戦争の危機を取り除き社会主義に勝ってしまったということである。敵がいなくなると体制側は民衆を取り込んでおく必要がなくなる。しかし皮肉なことに、そうすると民衆が暴れ出す。数の上では民衆の方が勝っており体制はそれを阻止できないからだ。
実は民主主義はまやかしであり、まやかしであるからこそ機能していたのである。民主主義を崩壊から救うためには次々に敵を作り出し大衆の目をそこに向ける必要がある。結局民主主義は争いからは自由になれないのである。