幼保無償化が決まる前に蓮舫議員が問題についてつぶやいていた。
彼女たちがターゲットにしている「困窮層」狙いだと思うのだが、どこかちょっとずれているような気がした。だが、それが何なのかはよくわからなかった。
何度でも言います。
— 蓮舫・立憲民主党 (@renho_sha) May 9, 2019
幼保無償化は響きはいい。財源があれば実現してもいい。
が、安倍内閣におけるこの政策は施設による保育の質の格差が固定したまま無償化となり、子ども達の安全、保育士達の安全の格差是正にはならない。かつ待機児童解消にもならない。#SmartNews https://t.co/pGKWHhxw27
そこで問題点を探してみたのだが、わかりやすく一元的に書かれている記事はなかった。法律は制定されてしまい、あとは10月の予算執行を待つばかりだ。今更ながらなのだが問題点を列挙していみたい。読後感として見えてくるのは安倍政権のビジョンのなさだ。
消費税増税と使い道の関係
まず、消費税は税の徴収方法(直間比率の見直しと間接税の簡素化)に関する議論であり、増税でもなければ使い道の議論ではない。だから消費税増税に合わせて幼保無償化を「期限ありき」で検討することがそもそも間違っていた。制度設計の拙速さについて触れた人はいたが、そもそも論を指摘した人は誰もいなかった。もう長い間マスコミも含めて「自己洗脳」にかかってしまっているのである。
少子化対策になっていない
大きな問題に興味がある人は幼保無償化のB/C(費用対効果)が気になるようだ。どちらかというと男性誌が好みそうな「大きな話題」であり当事者と問題意識が共有されているとは言い切れないのだが、大切な視点であることは間違いがない。
「幼児教育・保育無償化」の落とし穴はエコノミストらしいざっくりとした分析になっている。幼保無償化をしても恩恵を受けるのは子供を持っている家庭だけなのだから少子化対策にならず日本の構造的問題を解決できないと言うのだ。当事者たちにとってみれば「構造的問題など知ったこっちゃない」わけだが、大きな問題を取り扱う人たちにとってはこちらの方が重要なテーマなのだろう。
さらにこの制度は社会主義的な問題をもたらすことが目に見えている。国が補助を入れれば入れるほど潜在的な需要が掘り起こされ、供給過小状態が続き、なおかつ他に資源が行きわたらなくなるのだ。
困窮者対策になっていない
蓮舫議員が懸念しているのはこの点だろう。つまり一律に援助してしまうと結局高所得の人たちの方がトクをするという議論である。
言っていることはもっともだ。他にまわせるはずだった予算が幼保無償化に浪費される。しかし、幼保無償化はそもそも「消費税を払い損」と考える現役中所得層の不満の解消にある。彼らが自民党から離反して民主党系に取られないようにするための方策なのだから、この批判はあまり効果的ではないような気がする。日本の政党政治が成立しなかった理由がここにある。与野党は同じパイを奪い合ってしまうのだ。
子供を作らない(余裕がなくて作れない)人たちはこの問題については無関心なので、立憲民主党を支持しようとは思わないだろう。加えて、消費税対策にせよ子育て支援にせよ「中間層を支援し、それより仮想の人たちとの差別意識」を作るというのは、ポピュリズム政治家にとっては重要な活動である。困窮者が残り、一生懸命頑張っている自分たちが報われるという中間層の「メシウマ」感覚を助長するだけに終わりかねない。つまり、中途半端な反対はさらに中間層の「結束」を強めてしまうのである。
この議論は日経ビジネスの裏返しになっている。この一文はつまり「うかうか無償化すると貧乏人が押し寄せるぞ」とも取れてしまう。そしてこういう言い方のほうが「響く」という人が多いのである。
さらに、無償化することによって、子どもを預ける必要性がそれほど大きくない家庭からも潜在需要が掘り起こされて、待機児童の問題が一段と悪化するリスクが否定できない。
「幼児教育・保育無償化」の落とし穴
質の向上につながらない
女性が指摘する問題点は男性とは異なっている。幼稚園・保育園の質の向上という視点があるのだ。東洋経済も同じようなタイトルの記事を作っているのだが、こちらは男性エコノミストが書いた記事とは違った視点になっている。
保育所の第三者評価制度や幼稚園の学校評価制度はあるが、いわゆる経営や監査ではなく、幼児教育の内容やプロセスの質を問うた評価制度にはなっていない。つまり、無償化の資金投入だけを続けても、質が高まる保証のないままに投入することになる。
保育園無償化が効果ゼロに終わる3つの理由
幼稚園・保育園を小学校に変えるとわかりやすい。つまり「小学校は無料にするが、どんな質なのかは入る小学校によって異なる」のと同じ状態になっているのだ。ちゃんと市町村の目が行き届いている小学校と机を並べただけ(あるいはそれすらもない)学校が混在しかねないということである。どちらに入れるかは運次第である。
また、給与格差(公立と私立で待遇が全く異なるようだ)をなくしたり、保育士の研修制度を充実させたりという工夫が必要なのだが、そもそもバラマキの一環なのでそのような検討は全くされないままで制度設計が進んでいる。
東京新聞の記事にはこの辺りを批判した一節がある。
だが、無償化は安倍晋三首相が二〇一七年の衆院選で唐突に公約として打ち上げた。だから十分な制度設計の議論がないまま泥縄式に制度がつくられた。政策の狙いに内実が伴っていない。
保育の無償化 子供たちが置き去りだ
東京新聞だけ読んでも何を言っているのかわからなかったのだが、東洋経済を読んだ後だと意味がわかる。
再び小学校の例を出すと「小学校を無償化するがその原資が足りないし、制度設計をしている時間などないから怪しいところもまとめて小学校にしてしまえ」と言っている。逆にいうと日本で小学校制度を作った人たちがどれだけ偉かったのかということになる。小学校がある程度質の揃ったユニバーサルサービスであるということを感謝する人など誰もおらず文句ばかり言っているが、これからそのありがたみを実感するはずだ。
このようにまとめてみると、無理筋で乱暴な議論が積み重なっており、制度自体が混乱しかねない要素を多分にはらんでいることがわかる。その基礎にあるのは「幼保教育をどこに位置づけ、どれくらいの割合で予算を作るべきか」というグランドプランが全くないという問題だ。今風にいうと安倍政権にはビジョンがないのだ。