ざっくり解説 時々深掘り

保守から見て教育勅語は何が問題なのか

安倍内閣に新しく入閣した柴山大臣が「教育勅語を現代的にアレンジして導入できないか検討する」と言いだしている。正確には次のように発言したらしい。

現代風にアレンジをした形で、道徳などに使えるという意味で普遍性を持っている」と述べ、是認する意向を示した。

普遍的とはいうが、どのあたりが道徳に使えるのかということは示されていない。早速、左派から反論が出ている。戦前回帰だというわけである。だが、今回は視点を変えて保守の立場から教育勅語を批判してみたい。保守という立場をとるなら教育勅語を是認するのかという問題である。

少し複雑なのだが構造は簡単だ。第一の階層は最初の徳目を是認するかという点であり、第二の階層は天皇を中心とする全体主義を是認するかという点である。第三の階層はこの全体主義が正しく運用されてきたかという階層になる。もし正しく運用されてこなかったとしたらそれはなぜかというのが疑問になるだろう。

教育勅語には二つのパートがある。儒教的な哲学と皇室の尊重である。前回「公」について考えた時、公を公共(public)と読み替えてすべての人が能動的に参加する社会を公共とみなした。このフランス語経由の言葉は「一般に開かれた」という所有と切り離された概念になっている。ところが日本人は関係性に強く反応するのでこの所有と切り離されたという感覚がうまく理解できない。また、自分のものでないなら「関係ない」と考えるのが日本人である。

ところが教育勅語に出てくる公にはそもそもこのような意味はない。ここで言われている公は天皇を中心とした国体というような意味合いで使われている。漢字の公は私を集めた全体を指す会意文字なのだそうだ。ここから全体主義・集団主義的な意味合いを生じている。集団を作って狩や農業を行い国を作ってまとめてきたという成り立ちを表している。全体主義を批判する前にこの成り立ちをとにかく飲み込む必要がある。

これが日本の正しいあり方なのだと考えることもできるのだが、「教科書は疑わなければ」ならない。つまり、日本人はそもそも天皇を中心とした国家という意識がなかったので、わざわざこのような概念を作るしかなかったのではないかということである。英語のパブリックも外来概念だが、中国語の公も実は外来概念なのだ。

日本はこの集団主義を完全には受け入れず緩やかな村落的な共同体を作った。しかし、パブリックという概念も完全には取り入れられなかった。明治維新になって初めてアメリカなどの強い国と接触し、同時に中国が西洋から攻撃されているという状態を目の当たりにする。西洋社会にはキリスト教という精神的な支柱があり、アメリカやフランスのような民主主義国家やドイツやイギリスといった立憲君主制の国家があることを知った。これがまとまりになって目の前の立派な鉄の軍艦になって現れたわけである。だが、日本が西洋を受け入れる時「フランスやアメリカ」のような共和制を受け入れるか「ドイツやイギリス」のような君主制を受け入れるのかということについては意見がまとまらなかった。また、キリスト教も受け入れなかった。

教育勅語を作る時にもこの二つは対立する。天皇が国民の内心に踏み込むべきではないという人と、君主を前面に押し出した国を作るべきだという意見があったようだ。さらに前段となる精神性の部分も明確にできなかった。ヨーロッパであればキリスト教で問題が解決した部分が実は日本にはなかった。

教育勅語は、なんとなく誰もが反対しにくい「お父さんお母さんを大切にして真面目に勉強しましょう」という徳目に「日本は天皇を中心とした国なので、いざとなったら個人ではなく天皇に殉じましょう」という行動規範が結びついている。前段はなんとなく否定しづらいところがあるが実は何が徳なのかと言われるとよくわからない。この「みんながなんとなく反対しにくい」という点が、柴山新大臣のいう「普遍性がある」部分だ。

だから、なぜ天皇に殉じなければならないのかということについて一切説明がない。昔からそうなっているからそうするべきなのだということにしかなっていないのである。さすがにここには無理があるのだが、この勅語を奉る建物を作って神格化することによってこれを乗り切ろうとした。これは内地ではなんとなく成功したが、当然外地では通用しない。朝鮮や中国東北部(満州)に「天皇というすごい徳の高い人がいて昔からすごいすごいって言われているから、あなたも子分にしてあげる」というのが日本の主張だが、実際は武力で脅しているわけで、何の説得力もなかった。村で生きてきた日本人は他者を動機づける技術を持たなかったのである。

保守からみた教育勅語の問題はここにある。日本人は「自分たちは一体何によってまとまってきたのか」ということを真剣に考えてこなかったので、他人が説得できない。また、日本が周辺を統合してゆく時に「帝国化した日本をどのような国にするのか」ということも決められなかった。かといって、朝鮮を完全に武力で制圧するという「血も涙もない」こともできなかった。

日本が何であるかということを「天皇が統治する国」と定義するまではまあいいとしても、その天皇が何なのかということも実は法的には定義できなかった。ある勢力は天皇を「機関」として法的体系に組み込もうとしたのだが、別の勢力は「天皇を定義することすら不敬である」として議論そのものを恫喝した。これが国体明徴運動として定着すると天皇についての議論はできなくなり、却って「日本の国体を法的にどう正当化するのか」という議論ができなくなる。議論が萎縮したまま戦争に突入しGHQに頭ごなしに否定されたので、日本には戦後保守が育たず、代わりに「ウヨク」と呼ばれる勇ましい人たちだけが残ってしまった。

ただ、曖昧にしておくことで自由に振る舞える人もいた。力で勝る軍部は「政治の圧力を受けない」理由としてこれを利用する。そして政争を繰り返している政党も何も決められない状態から逃げ出すのにこれを使った。軍部はなし崩し的に戦線を拡大し、議論ができなくなった政治は「流れに乗り遅れるな」とばかりに大政翼賛会を作り戦争への流れを支援した。こうして誰も責任を取らない集団思考的な状態が作られ、第二次世界大戦が始まるのである。この誰も責任をとらない集団主義はとても高くついた。

これは日本人のメンタリティをよく表している。日本人はあまりいろいろなことを決めたがらない。決めないことによってそれぞれの人たちが好きなように解釈する余地が生まれる。だが、最終的には誰も責任をとらないので、時々大変なことをしでかす。

この「全体主義」はとても魅力的である。他人を説得できない人が「昔からそうなっている」というだけの理由で他人を従わせることができる道具として利用できるからである。

戦前の日本人は中国大陸に出て行って「天皇という高い徳を持った君主が治める立派な国の子分にしてやる」と主張したのだが、実際にはアジア人を一段下等なものと見なして自分に従わせるための道具に使った。これは「公」の「私物化」である。こうしたメンタリティは現在でも実は残っている。

もともと伊勢神宮の禰宜(神社のナンバーツーである)だった靖国神社の小堀邦夫宮司が次のような発言をしているとポストセブンが伝える。

  • (個人としての)天皇は靖国を潰そうとしているのでこれと戦って行かなければならない。
  • 天皇がいくら慰霊をしようがそこには魂はない。魂はすべて靖国神社にある。
  • 新しい天皇のお嫁さんは国家神道が嫌い。

天皇といえども国体という観点から見ると個人に過ぎない。個人は集団に仕えるべきなのだから、個人としての天皇も国体に従うべきであるということになる。いっけん、私を集めて公への帰依を求めているように見えるのだが、裏には隠された二つの面がある。一つは宮内庁と靖国神社の競い合いであり、もう一つは「公」の私物化である。日本人が声高に公について叫ぶ時、裏心として私物化の野望を持っていることが多い。つまり、天皇は靖国神社に従うべきであり靖国神社の方針は自分が決めると言っている。

この「天皇は個人としては尊重されない」というのも実は日本では昔からの慣習だった。昭和天皇は個人としては戦争に反対だったが軍部はそれを忖度しなかった。だから、昭和天皇は心情を述べることはあったが何も行動はしなかった。西洋の人からはそこが不思議なようでリンク先の記事では、日本人が戦争を消化しきれていないから天皇の意思がどう開戦につながったのか認識できていないのだろうと理由づけられている。しかし、なんとなく集団の雰囲気に流されることが多い日本人にはこの昭和天皇の気持ちがよくわかる。

小堀宮司のメンタリティは「俺に説教をするのか」という一言によく現れている。批判を嫌うが相手を従わせる智恵もないので「昔から決まっているからズベコベいうな」というわけである。戦前の軍部がメンタリティとしては昭和天皇を無視したように、靖国神社もまた「平和巡礼は今上天皇が勝手にやっていること」と言っているのだ。

よく日本会議が問題になるのだが、実際に問題なのはこのメンタリティである。西洋流に公を「オープンになったリソース」とみなすわけでもなければ、個を捨てて全体のために尽くそうと見なしているわけでもない。実際には他人のものを合法的に盗むために「公」を利用しようとしていることが問題なのである。

盗みは道徳的に問題であり、歴史の総体が個人に優先するという保守のありようからも認められない。結局「私物化」は公の否定だからだ。保守の人たちに欠けているのは「動機付けと責任」に関する一般的な知見ではないかと思う。公の私物化が起こると盗まれた方はその所有権を諦めると同時に責任も放棄する。これが一種の無責任体制を作る。この集団思考はどう転がるかわからないという危うさがある。

柴山新大臣が言わんとしていることはわかる。「お父さんやお母さんを大切にしましょう」とか「一生懸命勉強してね」というのは普遍的な価値観なのでそれ自体には(上下関係を前提にした哲学に問題を感じる人はいるだろうが)まあ許容範囲と言える。しかし問題は「下の句」だ。だが、それも「国のあり方」としては政治的意見の一つだろう。ただ、それはかつて国家権力の私物化と無責任体制につながって運用されてきたという歴史がある。

自民党にこうした人が増えてくるのは公を軽んじる人が増えているからなのだろう。未だに明確には否定されていない自民党の憲法草案や柴山新大臣の発言はそれを象徴していると言えるだろう。

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