フィクションとしての民主主義

先日来、教育勅語から「背骨のない日本」というお話をしている。今回はここから延長して民主主義や天賦人権はよくできたお話にすぎないという話をする。ここでいう話というのは「つくりごと」というような意味である。つまり、全部嘘かもしれないということだ。

保守を自称する人の中には西洋流の民主主義は日本には合わないというようなことを言う人がいる。なかでも片山さつきの「自民党は天賦人権は採用しない」という主張が有名だ。片山は天から人権が与えられたと考えると国民は努力をしなくなるから自民党の憲法草案では採用しなかったと主張した。一般的にこれは単なる妄言と捉えられている。

だが、がまんしてこの発言を噛んでいると、二つの疑問が出てくる。では日本本来の背骨になる主張とは何だったのかという問題と、そもそも天賦人権が唯一の正解なのかという問題である。

前者は柴山文部科学大臣の教育勅語発言でかなり明確になったと思う。教育勅語は徳を唄っているのだがこれは日本が中国から取り入れた外来の背骨に過ぎない。日本の儒教の流れを確認すると度々抑圧された形跡がある。観念論に走りがちな儒教を嫌う統治者が度々現れたからである。後段の私は公のために存在するというのもなんとなく大陸風ではあるが、実践された形跡がない。むしろ、公というカモフラージュの下で個人の失敗を隠蔽したり私腹を肥やすために使われているように感じられる。西洋流の民主主義が気に入らないという人は東洋流の哲学もうまく理解できておらず、さらに日本古来の哲学を見つけることもできない。結局「自分の好きなようにやらせろ」と言っているに過ぎない。

ここにある感覚は自分探しに似ている。いろいろなメイクに疲れた人が「ありのままの私が一番良いのではないか」と考えるようなものだ。だが、実際に化粧をなくしてみるととても外は歩けそうにない。ここで正常な感覚を持っている人は「そもそも本当の私」などというものは存在せず、周りに合わせて外見に氣を配るのが本当の私なのだということに気がつく。が、その現実を直視できない人は「これは本当に本当の私ではない」と考え始めるのかもしれない。

自民党の場合は下野した後で政策の見直しをせず、憲法改正案を整備し始めた。そこで彼らが得たのは「国民が天賦人権で甘やかされたから間違った判断をした」という結論だった。つまり、下野を他人のせいにして自分たちの現実を直視しなかったのである。今の自民党がまともな人権意識を持っている人たちをイラつかせているのは、政権の中枢にいる人たちがこうした感覚を抱えているからである。

そもそも天賦人権は努力なしで得られるものなのかと考えると、面白いことに気がつく。もともと天賦人権はヨーロッパのキリスト教市民にのみ与えられたものであった。植民地の住民には天賦人権はなく人間以下の存在として扱われた。彼らに自治権が認められるようになったのは第二次世界体制後のことなのである。そのあとも人権は拡張されてゆく。今度は国内のマイノリティにも同じ権利を認めるべきだとなった。女性は男性と同じように扱われるべきだということになり、最近では同性愛の人にも異性愛者と同じように家庭を持つ権利を与えるべきだとなっている。これではきりがない。

片山さつきは「天賦人権を認めてしまうと国民は何もしなくなる」と言っているのだが、これは明らかに間違いである。人権のゴールは蜃気楼のように後退してゆき決して達成されることがない天国の扉のようなものである。もし天賦人権が「そもそも神様から与えられた権利であり努力しなくても獲得されるべき」なのなら、こんなことが起こるはずはない。

神様が世界を天賦人権のある状態で創造したならこんなことになっているはずはないと考えると、天賦人権とはつまり人間が作り出したよくできたお話ということになる。むしろ、人権は経済成長の副作用のようなものだ。人々は社会が豊かになると豊かさを追求する権利を求めるようになる。そしてこの拡張について行ける国だけが民主主義国家を名乗り続けられるということになる。日本人の好きな言葉でいうとこれは「人権道」なのである。

彼らがあの悪名高い自民党憲法草案を作った時、政権を失っていた自民党は国民に対するルサンチマンで満ち満ちていた。さらに改憲派の人たちはそもそも「自分たちの関われなかった憲法はみっともない」と考えていた人たちであり、長い間傍流としてラベリングされていた恨みが表出していたにすぎない。つまり、自民党は現実への対応能力を失くしたがゆえに「人権道」に息切れを起こした。そして、ありもしない「お化粧をしなくてもきれいなはずの本当の私」を探し始めたのだろう。

日本は外に向かって開かれていた時にはその時々に流行していた背骨をお化粧として採用してきた。外を出歩く時には着飾りたいと考える。そして内向化が始まるとそれが形骸化されるというサイクルをたどっている。つまりコンビニくらいにしかゆかなくなるのでだんだん化粧がおざなりになってゆく。

百済と交流があった時代には仏教が取り入れられたわけだが、やがて日本で製鉄ができるようになるとこうしたつながりがなくなった。その後、天皇を中心とした時代は終わりその頃作られた氏族制度や官僚制はゆっくりと形骸化してゆく。前回ご紹介した「日本には日本にしかない国学というものがある」と考え始めた時代は江戸時代の中期以降だったわけだが、戦後の混乱の回復期が終わり停滞期が始まった時期に合致する。現在は日本が経済成長について行けなくなった時期にあたり、そこでまた「民主主義の形骸化」の動きが出てきたと言える。人権は経済成長に伴う権利意識の拡張なのだと考えると、それについて行けなくなった人たちが否定したがるのは当然といえるだろう。

これまで「日本には背骨がない」と主張してきたのだが、実は背骨がないのは当たり前のことなのかもしれない。もともと社会や国家に背骨となるものがあるわけではなく、日々の努力によって背骨を維持しており、それをさらに強くしてゆく過程そのものが民主主義なのである。民主主義と人権意識の安定は極めて動的な概念であり、これを静的に捉えた上で「天賦人権など認めると国家が停滞してしまう」などと考える人は、そもそも民主主義平和憲法について語る資格はない。

ただ、日本全体が内向化しているわけではないのではないだろうか。日本は世界第3位の経済大国として世界に開かれている。ただ、世襲ばかりになり、かといって村社会による柔軟な調整もできなくなった人たちだけが、勝手に内向いているだけである。

一度作り出された国家を背骨がない状態で維持することはできない。多分、憲法改正に執着する自民党の一部の人たちはこの流れについて行けなくなっているのだろう。これをこのまま存続させておくことは多分日本国民のためにはならないと思う。

国家としての背骨がないのに日本はなぜ崩壊しなかったのか

先日来、柴山新文部科学大臣の教育勅語発言について考えている。教育勅語にはこれといった哲学がないと書いた。にもかかわらずこれを持ち出すのはどうしてだろうというわけである。もともと日本人は国家を作る上で背骨となる信条を持たず、外来概念で代用してきたと分析した。だが、なぜそれで済んだのかということについてはあまり考えなかった。

この「教育勅語はどうとでも取れる」という危険性を認識している人は多い。が、それは天皇のための人殺しに利用されたという文脈でのことである。Twitterを読んでいたら「天皇の直接発言としては唯一のもの」であり、立憲主義の外側にあったという分析が流れてきた。これが明治天皇の孫の世代に悪用された。

ところがこれを統治の側から見た分析はない。つまり、どうとでも取れるということは「柴山という民主主義否定戦前反動主義勢力が明治天皇の威を借りてよからぬことを画策している」と捉えることもできるわけだ。例えば、国民から熱烈に支持されたはずの過去の大統領さえ有罪判決を受けて収監されるような韓国では確実にそのように利用されるだろうし、民主主義の裏打ちのない中国でも同じようなことが起こるだろう。大陸の国では「教条」が真剣に受け止められるからこういうことが起こる。

日本でこのような運動が起こらないのは、日本人が基本的に優しいからなのだが、同時に表面的な権力や原理原則にはあまりこだわらないからであるといえる。だから、平和憲法も「なんとなく解釈すれば」アメリカ軍についていっても良いということになるし、柴山大臣もなんとなくTwitterで叩かれる程度で済んでいるのだ。

柴山新文部科学大臣は多分教育勅語を真剣に読んだことがないのだろう。態度の変遷を見ていてるとそれがわかる。騒ぎが起きたあと、柴山さんは具体的な条文を上げて「どこに普遍性があるのか」を一度たりとも説明していないようだ。また、支持者たちが条文を挙げて柴山発言を擁護することもなかった。唯一見たのは産経新聞の擁護論だったのだが、共産党の悪口が書いてあるだけだった。曰く「バカをバカというやつがバカ」という中学生レベルの文章だった。この程度の気軽さで多くの人を戦争に巻き込んだ教育勅語を語れるほど軽い人が文部科学大臣に就任したということに恐ろしさと滑稽さを感じる。

現代の国家の背骨は民主主義である。民主主義は人工的に作られた信仰なので、これを守ってゆくためには不断の行動と信仰が必要になる。だが、これは国家レベルのことである。実際の日本人はもっと小さな共同体に住んでいて、国家レベルの取り決めをあまり真剣に捉えない。だから、押し付ける方も気軽にいろいろ言いやすいのだろう。

今教育勅語に反対している人の中には「教育勅語にはいざとなったら天皇のために死んでくれ」という文言が入っているのであろうと考えている人がいるのではないかと思う。だが、実際に書かれた文章にそのような文字はない。ただそれを読んでみても何が言いたいのかはよくわからない。「はっきりした定訳はない」のだそうだ。高橋源一郎のいったように「ぶっちゃけ戦争が起きたときには天皇のために戦ってください」という意味だったのかもしれないのだが、そうでなかったかもしれない。

教育勅語が出された4年後に日清戦争が起こるのだが、これは総力戦ではなかった。「国民全体が戦争に駆り出される」というような状態はその時の日本にはなかった。

むしろ、日本は国民に主権があるのではなく君主制の国であるということを強調しているように思える。つまり、背景にあったのはアメリカやフランスの影響を受けた共和主義者とドイツやイギリスのような君主制主義者の間の駆け引きである可能性が高い。

高橋源一郎の訳は、作られた当時の状況とこれが悪用された二つの時期をごっちゃにしている可能性がある。これが意図的なものなのかそれともそうでないのかはわからない。しかし、どうとでも取れるということは高橋訳が間違いとも言えないということになる。結果として「天皇のために死ね」という文脈で使われている実績があるからだ。だから柴山さんをその線で攻撃しても間違いとは言えないのだ。権力者が柴山さんや自民党政権に「反動勢力」のレッテルを貼って追い落とすというところまでは行かないが、民間で「自民党とそれを支援する秘密組織は国民を戦場に送ろうとしている」と騒ぎになる程度には曖昧で危険な文章だったということになる。それを軽々に持ち出した程度に柴山大臣は軽い大臣であり、その人が今後1年は文部科学行政を司ることになる。

教育勅語の曖昧さが悪用につながったことは間違いがない。普通の軍隊であれば、自分たちの兵隊を大量に殺してしまえば責任を取らなければならない。ところが、誰も責任を取りたくないので撤退したことを「転戦」のように言い換えたり、兵隊を無残に見捨てることを「英霊化する」と言い換えた。その一環として国民は天皇のいうことに従うべきだと主張したのであろう。だが昭和天皇に直接命令をしていただいたわけではない。明治天皇の過去の曖昧な発言を持ち出して「学校でそう教えてきたでしょ」と言えばよかったのである。

昭和天皇は報告を受けて不快感を表明したり、逆に善戦したことを喜んだりしていたようであるが、戦争に主体的に関わったわけではない。やれば主体的に戦争を指導できたのか、それとも無理だったのかということも今となってはよくわからない。

教育勅語が作られた時代と昭和15年ごろでは何が違っていたのかを考えるのは面白い。明治維新は個人的につながった武士が起こした革命である。この明治維新の支え手たちは元勲という50人に満たない私的なネットワークを持っていた。最後の元老と呼ばれた西園寺公望が亡くなるのは昭和15年だったそうだ。この頃日本には様々な変化が起きていた。中国大陸へのなし崩し的な進行と軍事衝突が始まり第二次世界大戦に突入してゆく時期なのである。議会制民主主義もこの頃に崩壊する。二大政党制に疲れ果てた議会は大政翼賛会を作りそのまま戦争を容認するようになった。

つまり、日本は外来的な立憲君主制の憲法を保持しつつも、実際には村によって支えられるという二重性を最初から持っていた。これが崩壊すると集団思考に陥り中心核を持たないままで戦争に突入していったということになる。

同じことが戦後の日本でも起きている。日本で戦後政治の中枢を担ったのは、多分民主主義憲法ではなかった。敗戦処理を知っている一部の官僚あがりの政治家たちだったのだろう。彼らは吉田茂を中心として「吉田学校」を作り、政策は池田勇人に引き継がれた。例えば宮沢喜一はサンフランシスコ講和条約に参加し池田勇人の勧めで政治家になった。この宮沢が最後の自民党単独政権の首相だったのだが、金権政治に耐えられず政権を失い、細川政権が誕生する。そして、現在ではこうした戦後政治の担い手は格段に長生きした中曽根康弘だけになっている。中曽根は今年100歳になったそうだ。

この時にバブル経済が壊れて「日本はなんとかして変わらなければならない」というような空気が蔓延するのだが、誰もどう変わっていいかというプランを提示できなかった。最終的には自民党の「公共事業頼みの政治が悪い」ということになり民主党政権ができるのだが、相手を避難して政権を取っただけの民主党は何もできなかった。民主党の光景政党は未だに背骨となるような信条を提示できておらず分裂したまま国民の指示を失った。結局残ったのは保守本流を破壊し民主党勢力が自滅して残った自民党保守傍流だけになってしまった。

とはいえ、自民党も背骨となるような国家観は打ち出せていない。安倍首相が憲法を改正したいのは「みっともない憲法だった」とおじいちゃんとその友達たちが言っていたというだけの理由である。自分で具体案を出したが誰からも賛同してもらえなかった。そこで「今国会で具体案をお示しする」と言っていたのに、たたき台を作って出すに止めてはどうかと言われると「最初からそう思っていた」というように返答をした(東京新聞)という。また最初に公明党に提示すると言っていたのだが、公明党が巻き込み事故を恐れて「関わりたくない」というと「自民党としての案を出す」と言っていることがコロコロと変わっている。具体的にやりたいこともなければ、それを押し通すための戦略すら持っていないのである。

教育勅語はどうとでも取れるがゆえに暴走して多くの国民を死に追いやった。だが、安倍内閣はその危険性を全く認識していない。現在は、妥協してでも憲法を変えたという実績を作りたいと焦っている。妥協の末に出来上がるのは多分どうとでも取れる憲法だろう。最初に悪意がなかったとしても、それはやがて誰かの失敗を隠蔽するために利用されることになるのだろう。

ただ、これがどう転ぶのかはわからない。背景に背骨のなさを支える非公式の村組織があれば大したことにはならないだろうし、それがなくなった時には集団思考に陥り暴走を始めるだろう。

こうした憲法の瞑想の影では経済危機が迫っている。日銀の金融緩和策は利子が上がると破綻してしまう可能性がある。日銀の利子払いが爆発的に増えて行き、最終的には通貨が信任を失うからである。経済界が慌てないのはこれまでアベノミクスが実質的な効果を挙げていない上に、日本経済が高齢化により弱体化することを見越しているからだろう。しかしIMFからはアベノミクスを見直して効果が出る政策を打ち出すべきだ(AFP)と言われており、今後何かが起きた時にはもう打ち出せるマクロ政策はないだろうと予測(ロイター)されている。

日本人は何を信じ、何を信じてこなかったのか

柴山文科大臣の「教育勅語」発言から日本の保守の劣化について考えている。前回は教育勅語が出来損ないの思想体系であり、保守を名乗るならば教育勅語を否定すべきであると書いた。ところがこれが出来損ないであると断じるためにはいくつか考えなければならない点がある。

第一に考えるべきなのは、なぜ教育勅語が二段構えになっているかという点である。反ネトウヨの人たちからは「天皇崇拝につながるので全体として捉えるべきである」という主張が聞かれるのだが、やはり読んでみると前半と後半の二段構えになっている。最初の部分では儒教からコピペしたらしい「徳」が羅列され、それが天皇家のために命を投げ出しなさいという行動規範につながる。そこから、次になぜ最初が儒教なのだろうかという問題が出てくる。

この疑問を転がしていると、そもそも国家が精神的な支柱を必要とするのはどうしてなのかという疑問が出てくる。日本人であれば「みんなが仲良くなる自然な共同体にわざわざ精神的支柱を持ち込むのはなぜか不自然だ」と感じるのではないか。例えば仲良し家族ではお父さんが無理やりに家族の決まりを作る必要はない。みんなが自然と和気藹々となれるからである。逆にお父さんが無理やり「日曜日には家族みんなで出かけること」のような決まりを言い出す家には「何かあるに違いない」と感じるはずである。つまり、お父さんは嫌われているのである。

だが、国家や文明圏というのはたいていそれを支える精神的支柱を持っている。ヨーロッパの民主主義社会はキリスト教を支柱としており、中東にはイスラム教を支柱とする社会が広がる。中華文明の基礎にある支柱は儒教秩序である。だが、日本にはそれが見当たらないのである。

日本を文明圏として捉えると、日本文明は神道文化圏であると定義されることが多い。神道の特徴は中心教義がないということである。天皇家は自分たちの神社は持っていたがこれが他の家の宗教を飲み込むことはなかった。

明治維新期の日本政府がキリスト教のような背骨を求めたように、大和朝廷も外国と交流を通して「国には宗教が必要である」ということを学んでゆく。

寺という言葉があり日本語では「じ」か「てら」と発音する。「じ」は中国由来だが、「てら」はなんとなく固有語らしき響きがある。仏教は外来宗教なので「てら」は別の概念を意味していてもよさそうだが、これが仏教意外で使われていたという痕跡はない。

朝鮮語では寺を절(cheol)というようだ。このチョルが日本語風に発音されて「てら」と読まれるようになったのではないかと唱える人がいる。日本人の中には朝鮮から文化を輸入したということを認めたくない人たちが大勢いて「定説はない」ことになっており、インドから直接入れたという人もいるが証拠はない状態である。いずれにせよ「てら」という言葉は、寺を導入する時に日本に入ってきた外来語であり、朝鮮語の読みをそのまま入れた可能性が高い。

日本(倭国)は当時朝鮮半島南部の国と接触があった。特に鉄の輸入は軍事的に大変重要だったので、わざわざ海を渡り朝鮮南部から鉄を持ってきていた。朝鮮半島南部の経営を巡って百済・新羅と対立する。やがて百済と外交を行って新羅に対立するようになった。百済は軍事的支援を求めて倭国に度々使節を送り、軍事的支援の見返りとして仏教と寺院建立の技術を提供するようになった。こうして仏教は周辺技術を伴って日本に伝来する。

百済は中国南部にあった南朝の王朝との交流があり仏教もそこから輸入したようである。当時の中国は国家を挙げて仏教を崇拝していた。中国はインドから仏教を学んだ。仏教は儒教が広まる前の東洋圏の最新モードだったわけである。

寺という漢字にはもともと宗教的な意味はなく「役人が侍う場所」という意味の漢字だったそうである。また、仏教は教会を統一しなかったので、いくかの仏典がバラバラに残った。聖天はあるがキリスト教会のような統一聖書は作らなかった。このため、国家が仏教を捨てた大陸部では仏教は衰退してしまう。

日本では国家宗教を何にするかが豪族同士の派閥争いに利用されることになる。旧来の神々を奉る物部氏と仏教という先進技術を使った蘇我氏の争いが起きた。そして、蘇我氏が勝利することにより仏教は国家の宗教になってゆく。日本で最初に建てられた飛鳥寺は蘇我氏の氏寺だった。やがて、国中に国分寺が作られるようになる。仏法を通じて天皇中心とする統治と国の安寧を広げようとしたのである。

中国や朝鮮半島では王朝の簒奪が起こるとそれまでの宗教的秩序を破壊する必要があった。だから仏教は迫害されるようになる。なぜ儒教だけが残ったのかはわからないが、寺のような宗教的権威がなく、国家秩序に組み入れやすかったからではないかと思われる。代わりに国家が試験で選抜した官吏が儒教教義について論争するというような体裁がとられる。宗教組織が国家権力を簒奪するような危険が儒教にはなかったが朝鮮では内輪化した教義論争となり最終的には国が滅びることになる。儒学者は国民教育の重要性を理解しなかったので国力が上がらなかったからである。

しかし日本の精神的支柱は全く別の道をたどる。天皇家は自分たちの宗教を捨てなかったし、従来の宗教と仏教を区別せず「混交させる」ことにした。儒教が仏教を駆逐することもなかった。つまり全部をごちゃ混ぜにしてしまった。これは日本人が本当の精神的支柱を持っているか、そもそも必要としていなかったことを意味している。やがて天皇家を中心とした社会は崩壊するのだが、かといって天皇家が権力を簒奪されることもなかった。なんとなく取り入れた精神をなんとなく形骸化するのが日本式なのである。

もちろん、日本にもオリジナルの精神文化を作ろうという動きはあったが、江戸時代になってからである。これを国学というそうだ。戦国時代に落ち着いて日本人の精神性について議論できなかったことはわかるのだが、それ以前にも日本固有の背骨となる宗教体系を作ろうという関心はなかったことになる。

やがて、国学は復古神道につながってゆくのだが、復古神道は日本の伝統を復活させることはできなかった。神道はバラバラの神々の固有の信仰群であり統一した文字も口伝による教義すらもなかったからではないかと思われる。だから、教育勅語には儒教の徳を「なんとなく羅列した」ような徳目しか並べられなかったことになるし、これを天皇家の治世と直接的に結びつけることはできなかった。伊勢神宮の教義を持ってくることもできたのだろうが、これは国家統一の精神的支柱としては利用されてこなかったし、そもそもこれを国家の精神的な支柱にしようなどと考える人すらいなかった。

根がないものが固有性を主張すると相手を否定さざるをえなくなる。これは、もうお馴染みになった図式である。つまり、他者の否定に走るしかなくなるわけだ。復古神道の場合それは廃仏毀釈運動だった。国家は西洋との対抗上「固有の宗教」を作る必要性を感じ「神道から仏教的要素をなくす」という意味合いで廃仏毀釈運動を推進したのだが民間ではそうは受け取られず暴動に発展し数年で収まった。

だが、それでも仏教は残った。神道は死を穢れとして扱うので葬式だけは仏教で行う人が多かったためではないだろうか。その意味では靖国神社が英霊を扱うのは例外的である。靖国神社はこの「死は穢れ」という問題を「戦死した人たちの遺骨を別にする」という処理をしている。前回ご紹介した伊勢神宮からきた靖国神社の小堀宮司の「天皇は遺骨を見て回っているだけ」という発言は実は「そういう穢れたものはどうでもよい」と考える神道の伝統に則っている。しかし、国のために死んだら、面倒な葬儀は行わずに「きれいになった霊」だけがみんな一つの何かになってなんとなく靖国に集まってくるというのも考えてみればずいぶん乱暴な教義だ。

この「私をなくしてもっと大きなもの(公)」になるという概念自体は大陸的集団主義から見た公共の概念なのだが、実際の日本人は公をこうは捉えない。日本人はできあがった公からいかに村の私的な利益を引き出せるかということを考えると同時に、みんなでワイワイ騒げば個人の責任は追求されないと想定する。第二次世界大戦のようなおおごとも突き詰めて行くと最終意思決定者がいないのはそのためである。公は何かを成し遂げるための目標ではなく、責任逃れのための手段なのだ。このため英霊は「指揮官が配下の兵士の死の責任を問われない」ための装置としてのみ機能し、やがてそれゆえに非難されることになる。

最終的に日本は国家を守るための精神的支柱を作らないままで帝国建設に突き進んだので、帝国の意義を新しく獲得した領土に伝えることができなかった。現在の大相撲協会の「村社会の理屈」が外(マスコミ)に説明できないのによく似ている。国内での議論も行われず、GHQにも否定された上に、当の保守の人たちにも「なぜ負けたのか」とか「何が足りなかったのか」という議論はやらなかった。そもそも日本人にはそういったことを突き詰めて考える習慣はない。あるとしたら冒頭の「嫌われているお父さん」が個人理想の日曜日を作るために子供達の行動を制限して「週末はみんなでデパートに出かける」と決める時くらいである。そしてお父さんが考える日曜日はたいていつまらない。つまり、日本人にとって決まりごとのある集団はそもそも不自然でつまらないものなのである。

現在の国の中心教義は当時のアメリカで流行っていた民主主義でありその根本思想は天賦人権である。これはキリスト教から宗教臭さを取り除いた人工宗教だが、実によくできている。日本人は神道も仏教もキリスト教も民主主義もなんとなく取り入れて、都合のよいところを取り出して使っている。突き詰めて考えないのが自然な状態なので、別にこれでも構わないわけである。

このことから、「日本が統一された固有の宗教的世界観を提示できなかった」から日本人が劣っていると考えるべきではないと思う。統一された宗教的世界観が作られなかったのは日本が利権を中心にした小さな村社会の連合体だったからだろう。村社会は血縁制約がある家族や氏族よりは大きくなれるが、人工的な理想で利権社会を拡張するほどは大きくなれない。つまり、所有概念を外した「パブリック」も、個人や私(これはつまり私的利権のことだ)を超越した「公」も必要がなかったのだ。

日本人は他人を説得する価値体系を提示できないので村を超えて結びつくことはできない。しかし村社会は相互監視と牽制による「永遠に勝者がない」状態である。真正保守がやってきたのは他派閥を支える利権組織を壊して保守本流を弱体化させることだった。だが、それに代わる中心教義はないので破壊にばかり目がいってしまう。もともと自民党がやってきたのは憲法を形骸化させてなんとなく崩してゆくことだったのだがこれは日本人には受け入れやすかった。だから、現在の真正保守(いわゆる安倍トモの人たち)がやろうとしている天賦人権の否定は現在の廃仏毀釈運動なのである。

いわゆる保守と言われる人たちは「天賦人権」も気に入らない。だが、それの代替になる統治理念としての統一された世界観も提示できない。多くの人がそれに気がつき問題点を口々に指摘すると、彼らは結局沈黙を守るしかない。だが、自分たちに何が欠落しているかということには気づけないために、壊れたテープレコーダーのように同じ間違いを繰り返すことになる。だから、真正保守の人たちと議論をすると「特にやりたいことはないが権力を集中させたいし、とにかく憲法を変えたい」という中身のない議論に収斂してゆくしかない。その中心教義は「国家という大きなものを引き合いに出せば私物化も目立たないだろう」くらいのものである。

ところが、これを迎え撃つ側の人たちも「天賦人権」が単なる教義であるという前提が受け入れられないのでうまく防衛ができない。一億人を超える巨大国家という化け物のような共同体が運営されるためには人工的に作った背骨が必要である。そして人工的な背骨を維持するためには不断の改良と人々の信仰による支えが必要だということが飲み込めない人が多いのではないかと思う。

保守から見て教育勅語は何が問題なのか

安倍内閣に新しく入閣した柴山大臣が「教育勅語を現代的にアレンジして導入できないか検討する」と言いだしている。正確には次のように発言したらしい。

現代風にアレンジをした形で、道徳などに使えるという意味で普遍性を持っている」と述べ、是認する意向を示した。

普遍的とはいうが、どのあたりが道徳に使えるのかということは示されていない。早速、左派から反論が出ている。戦前回帰だというわけである。だが、今回は視点を変えて保守の立場から教育勅語を批判してみたい。保守という立場をとるなら教育勅語を是認するのかという問題である。

少し複雑なのだが構造は簡単だ。第一の階層は最初の徳目を是認するかという点であり、第二の階層は天皇を中心とする全体主義を是認するかという点である。第三の階層はこの全体主義が正しく運用されてきたかという階層になる。もし正しく運用されてこなかったとしたらそれはなぜかというのが疑問になるだろう。

教育勅語には二つのパートがある。儒教的な哲学と皇室の尊重である。前回「公」について考えた時、公を公共(public)と読み替えてすべての人が能動的に参加する社会を公共とみなした。このフランス語経由の言葉は「一般に開かれた」という所有と切り離された概念になっている。ところが日本人は関係性に強く反応するのでこの所有と切り離されたという感覚がうまく理解できない。また、自分のものでないなら「関係ない」と考えるのが日本人である。

ところが教育勅語に出てくる公にはそもそもこのような意味はない。ここで言われている公は天皇を中心とした国体というような意味合いで使われている。漢字の公は私を集めた全体を指す会意文字なのだそうだ。ここから全体主義・集団主義的な意味合いを生じている。集団を作って狩や農業を行い国を作ってまとめてきたという成り立ちを表している。全体主義を批判する前にこの成り立ちをとにかく飲み込む必要がある。

これが日本の正しいあり方なのだと考えることもできるのだが、「教科書は疑わなければ」ならない。つまり、日本人はそもそも天皇を中心とした国家という意識がなかったので、わざわざこのような概念を作るしかなかったのではないかということである。英語のパブリックも外来概念だが、中国語の公も実は外来概念なのだ。

日本はこの集団主義を完全には受け入れず緩やかな村落的な共同体を作った。しかし、パブリックという概念も完全には取り入れられなかった。明治維新になって初めてアメリカなどの強い国と接触し、同時に中国が西洋から攻撃されているという状態を目の当たりにする。西洋社会にはキリスト教という精神的な支柱があり、アメリカやフランスのような民主主義国家やドイツやイギリスといった立憲君主制の国家があることを知った。これがまとまりになって目の前の立派な鉄の軍艦になって現れたわけである。だが、日本が西洋を受け入れる時「フランスやアメリカ」のような共和制を受け入れるか「ドイツやイギリス」のような君主制を受け入れるのかということについては意見がまとまらなかった。また、キリスト教も受け入れなかった。

教育勅語を作る時にもこの二つは対立する。天皇が国民の内心に踏み込むべきではないという人と、君主を前面に押し出した国を作るべきだという意見があったようだ。さらに前段となる精神性の部分も明確にできなかった。ヨーロッパであればキリスト教で問題が解決した部分が実は日本にはなかった。

教育勅語は、なんとなく誰もが反対しにくい「お父さんお母さんを大切にして真面目に勉強しましょう」という徳目に「日本は天皇を中心とした国なので、いざとなったら個人ではなく天皇に殉じましょう」という行動規範が結びついている。前段はなんとなく否定しづらいところがあるが実は何が徳なのかと言われるとよくわからない。この「みんながなんとなく反対しにくい」という点が、柴山新大臣のいう「普遍性がある」部分だ。

だから、なぜ天皇に殉じなければならないのかということについて一切説明がない。昔からそうなっているからそうするべきなのだということにしかなっていないのである。さすがにここには無理があるのだが、この勅語を奉る建物を作って神格化することによってこれを乗り切ろうとした。これは内地ではなんとなく成功したが、当然外地では通用しない。朝鮮や中国東北部(満州)に「天皇というすごい徳の高い人がいて昔からすごいすごいって言われているから、あなたも子分にしてあげる」というのが日本の主張だが、実際は武力で脅しているわけで、何の説得力もなかった。村で生きてきた日本人は他者を動機づける技術を持たなかったのである。

保守からみた教育勅語の問題はここにある。日本人は「自分たちは一体何によってまとまってきたのか」ということを真剣に考えてこなかったので、他人が説得できない。また、日本が周辺を統合してゆく時に「帝国化した日本をどのような国にするのか」ということも決められなかった。かといって、朝鮮を完全に武力で制圧するという「血も涙もない」こともできなかった。

日本が何であるかということを「天皇が統治する国」と定義するまではまあいいとしても、その天皇が何なのかということも実は法的には定義できなかった。ある勢力は天皇を「機関」として法的体系に組み込もうとしたのだが、別の勢力は「天皇を定義することすら不敬である」として議論そのものを恫喝した。これが国体明徴運動として定着すると天皇についての議論はできなくなり、却って「日本の国体を法的にどう正当化するのか」という議論ができなくなる。議論が萎縮したまま戦争に突入しGHQに頭ごなしに否定されたので、日本には戦後保守が育たず、代わりに「ウヨク」と呼ばれる勇ましい人たちだけが残ってしまった。

ただ、曖昧にしておくことで自由に振る舞える人もいた。力で勝る軍部は「政治の圧力を受けない」理由としてこれを利用する。そして政争を繰り返している政党も何も決められない状態から逃げ出すのにこれを使った。軍部はなし崩し的に戦線を拡大し、議論ができなくなった政治は「流れに乗り遅れるな」とばかりに大政翼賛会を作り戦争への流れを支援した。こうして誰も責任を取らない集団思考的な状態が作られ、第二次世界大戦が始まるのである。この誰も責任をとらない集団主義はとても高くついた。

これは日本人のメンタリティをよく表している。日本人はあまりいろいろなことを決めたがらない。決めないことによってそれぞれの人たちが好きなように解釈する余地が生まれる。だが、最終的には誰も責任をとらないので、時々大変なことをしでかす。

この「全体主義」はとても魅力的である。他人を説得できない人が「昔からそうなっている」というだけの理由で他人を従わせることができる道具として利用できるからである。

戦前の日本人は中国大陸に出て行って「天皇という高い徳を持った君主が治める立派な国の子分にしてやる」と主張したのだが、実際にはアジア人を一段下等なものと見なして自分に従わせるための道具に使った。これは「公」の「私物化」である。こうしたメンタリティは現在でも実は残っている。

もともと伊勢神宮の禰宜(神社のナンバーツーである)だった靖国神社の小堀邦夫宮司が次のような発言をしているとポストセブンが伝える。

  • (個人としての)天皇は靖国を潰そうとしているのでこれと戦って行かなければならない。
  • 天皇がいくら慰霊をしようがそこには魂はない。魂はすべて靖国神社にある。
  • 新しい天皇のお嫁さんは国家神道が嫌い。

天皇といえども国体という観点から見ると個人に過ぎない。個人は集団に仕えるべきなのだから、個人としての天皇も国体に従うべきであるということになる。いっけん、私を集めて公への帰依を求めているように見えるのだが、裏には隠された二つの面がある。一つは宮内庁と靖国神社の競い合いであり、もう一つは「公」の私物化である。日本人が声高に公について叫ぶ時、裏心として私物化の野望を持っていることが多い。つまり、天皇は靖国神社に従うべきであり靖国神社の方針は自分が決めると言っている。

この「天皇は個人としては尊重されない」というのも実は日本では昔からの慣習だった。昭和天皇は個人としては戦争に反対だったが軍部はそれを忖度しなかった。だから、昭和天皇は心情を述べることはあったが何も行動はしなかった。西洋の人からはそこが不思議なようでリンク先の記事では、日本人が戦争を消化しきれていないから天皇の意思がどう開戦につながったのか認識できていないのだろうと理由づけられている。しかし、なんとなく集団の雰囲気に流されることが多い日本人にはこの昭和天皇の気持ちがよくわかる。

小堀宮司のメンタリティは「俺に説教をするのか」という一言によく現れている。批判を嫌うが相手を従わせる智恵もないので「昔から決まっているからズベコベいうな」というわけである。戦前の軍部がメンタリティとしては昭和天皇を無視したように、靖国神社もまた「平和巡礼は今上天皇が勝手にやっていること」と言っているのだ。

よく日本会議が問題になるのだが、実際に問題なのはこのメンタリティである。西洋流に公を「オープンになったリソース」とみなすわけでもなければ、個を捨てて全体のために尽くそうと見なしているわけでもない。実際には他人のものを合法的に盗むために「公」を利用しようとしていることが問題なのである。

盗みは道徳的に問題であり、歴史の総体が個人に優先するという保守のありようからも認められない。結局「私物化」は公の否定だからだ。保守の人たちに欠けているのは「動機付けと責任」に関する一般的な知見ではないかと思う。公の私物化が起こると盗まれた方はその所有権を諦めると同時に責任も放棄する。これが一種の無責任体制を作る。この集団思考はどう転がるかわからないという危うさがある。

柴山新大臣が言わんとしていることはわかる。「お父さんやお母さんを大切にしましょう」とか「一生懸命勉強してね」というのは普遍的な価値観なのでそれ自体には(上下関係を前提にした哲学に問題を感じる人はいるだろうが)まあ許容範囲と言える。しかし問題は「下の句」だ。だが、それも「国のあり方」としては政治的意見の一つだろう。ただ、それはかつて国家権力の私物化と無責任体制につながって運用されてきたという歴史がある。

自民党にこうした人が増えてくるのは公を軽んじる人が増えているからなのだろう。未だに明確には否定されていない自民党の憲法草案や柴山新大臣の発言はそれを象徴していると言えるだろう。