杉田水脈の妄想とも言える議論をきっかけに日本の社会について考えている。妄想のなかには日本人が持っている社会観をよく表しているところがある。それは共同体に「役に立つ人間」と「そうではない人たち」がいるという視点である。民主主義国家では受け入れられない概念だが日本人の中にはうっすらとそう思っている人も多いのではないだろうか。
この二つの考え方は日本語の中に書き言葉の漢語とやまと言葉の二つがあるのに似ている。普段日本人が政治について語るときにはこの二つを使い分けているのだが、いわゆる保守と呼ばれる政治家の中には整合性が取れなくなっている人がいる。稲田朋美議員は護憲派を新興宗教呼ばわりして問題になった。憲法は書き言葉であり、彼女たちが内輪で話をしている「第9条原理主義者」という差別的な言い方は話し言葉に当たる。稲田議員はSNSで身内に話すつもりだったのだろうが、SNSの発言は世界に向けて発信された。だが、これは仏教を厳密に守る人たちと神道と混交した仏教を信じる人がいるのに似ている。表向きでは僧侶のふりをしているが、中には神殿があって教義のない宗教を実践しているような感じだ。だが、表で柏手を打ってしまうと「ここは寺である」と非難されるのである。
前回、見るのは、国家と産業の関係だ。その一端として、家業・企業・国の間にある労働力の取り合いという図式を見た。これは国家が企業や家業のライバルになっているということを意味している。保守の人たちにとって国家は福祉や社会保障の単位ではなく、それ自体が営利集団なのだ。そして自民党政治家は当然そこから利益をつまんでも構わない選ばれた人たちなのである。
もともと日本は家業中心だったのだが明治維新以降「国」という概念が整備された。例えば武士の世界には国や社会という概念はない。だから藩は武士に土地を分け与えて家族や使用人に耕作させていた。家業は産業でもあり社会保障でもある。だから、江戸時代の武士の階級は所有地の「石高」で図ることができる。江戸時代には国が産業を育成して外国に製品を得るという国家重商主義のような仕組みはなかった。日本はこの仕組みを改めて短い期間に国家と企業が連携した産業連合体を作ることで近代化に成功した。戦争が国の一大事業になるとこの主体は国に移った。
もちろん乱暴な議論なのだが、これを整理すると保守とリベラルという構造をイデオロギーなしに理解することができる。保守という態勢はなんとかして家庭を中心としたピラミッド構造を国家まで結びつければ良い。つまり国家社会主義的な体制を再構築してその単位として家を位置づければ良いわけである。そのためには「家業」という具体的な事業が必要であり、家業は国家事業に結びつけられなければならない。国家社会主義はドイツ語でNationalsozialismusと呼ばれるそうだ。その省略形がナチズムである。ドイツの場合、周辺国に「取り上げられた」失地を回復するのがナチズムの目的だった。ただ、その道のりは困難を極め、内側ではユダヤ人の虐殺などが起こった。日本の場合は国家社会主義的な体制を満州で実験するのだが、その過程で多いに現地の人たちの恨みを買った。これは民族国家という体制が「内と外」を作ってしまうからである。保守の人たちが盛んにいう「反日と中国の脅威」はこれに呼応する。
杉田議論で誰でも引っかかるのが「生産性」とか「役に立つ・立たない」といった漠然とした曖昧な評価基準である。日本ではすでに個人主義が一部導入され、終身雇用も実質的には破綻しているているために、国家や企業などの集団が個人の価値を定義するということに反対意見が多い。この生産性とは「国家・企業連合体」の生産活動が前提になっている。生産活動に寄与する人が役に立つ人であり、そうでない人は支援されるべきではないと言っている。現代民主主義においては間違った考え方だが、口語的に使用される「政治」においてはよく用いられる表現である。この口語を持ち出してきて「国家が」「効率的に」役に立たない少数者の排除を始めると、それがナチズムに見られたユダヤ人や障害者の虐殺になる。
杉田議論が愚かなのは、保守がどこから来たのかということが全く理解できない上に考えようともしないからなのだが、発想自体は日本人の口語的政治世界をよく体現している。個人の考えや事業というものが基本的に存在しない日本では、個人はなんらかの生産集団の一員であるべきだと考えられる。だから「役に立つ」かどうかを国が決められると思い込んでしまうのであろう。
このことは個人に置いても重要である。つまり多くの人が「生き甲斐が見つからない」と感じるのは「生まれながらにしてなんらかの生産集団に属しているわけではない」ということを意味している。だが、現代民主主義国家においては、それは選択的に見つけ出すものであって、誰かに与えられるものでもなければ、自然と湧いてくるものでもない。これも文語的政治が理解されていないことを意味している。
だから、日本人が保守と呼んでいるあの奇妙で漠然とした何かを取り戻すということは、日本がイデオロギーによらない生産主体としての集団をどのような形で復活させることができるのかということにかかっている。自然な形で復活させられれば外に敵を作る必要はない。一方で、リベラルという人たちはここから脱却して国が個人や企業を支える主体になるように社会変革をすれば良い。
その意味では枝野幸男が国会で不信任同義で語った「保守観」は間違っていることになる。枝野はフランス革命を引き合いに出し急激な社会の変化に争い漸次的な変化が保守だと言ったのだが、そもそもイデオロギーを前提としない日本人にはそれほど意味のある議論ではなさそうだ。
ナチズムに対するアレルギー的な反応を傍において、ここで本当に議論すべきなのは「そもそも集団が一生にわたって個人の生活を保証できるだけの事業を提供しうるのだろうか」という課題である。産業の変化が激しい現代ではこの数十年の間にも「IT」といった全く新しい産業が生まれる一方で、自動車産業は内燃機関を放棄して家電のような存在になりつつある。このような時代に生きる現代人はもはや一生の間に食べるに困らない産業も持てないし、これさえ覚えれば食いっぱぐれがないという技術もありえない。国家が指導的な役割を果たして一大企業「日本株式会社」を経営することは不可能ではないだろうが、政治家が家業として政治を行っている状態ではとても最新の変化について行くことはできそうもない。基本的には計画経済的な共産主義が破綻したのと同じ構造で行き詰まるはずだ。
日本においてリベラルであるということは、国家や企業集団が生産の主体であることを放棄するということなのである。生産体だった日本では杉田議員が言うように「誰が役に立つ人間か」ということを決めていたのだが、民主主義社会ではそれは国民が決めることであって、政治はそのサポートをするにすぎない。民主党政権はそこで中央集権的な官僚機構に頼ったために改革に失敗したのだ。
日本の政治は「家業政治家」によって支えられている。これは日本の支配構造が未だに家業ピラミッドであるということを意味している。自民党の政治家は未だに県を「藩」だと思っているので県から代表がいなくなると地球が終わるかのような大騒ぎをする。実際に地方の自民党の支持者たちは家業を中心としたピラミッドを形成しているのだろう。さらに、すでに家業を失った人たちの中にも古いイエ観が残っている。嫁ぐということは家に入るということであり、男性が苗字を変えただけで「養子に入ったのね」と言われてしまう。
日本の保守政治は国民の思い込みに支えられているので、これを継続することを決めたとしても国民に意識改革を迫る必要はない。だが、実際の生産体系はすでに彼らの思い込みを支えることはできなくなっている。さらに地方からは人口と資金が失われつつある。彼らのお城は立派かもしれないが、今にも崩れそうな砂の上に立っているのである。もし保守政治家が「日本を取り戻したい」とすると、彼らはどのように生産体を復活させるかという議論をしなければならないことになる。ナチスのような悲惨な末路にならないためには「敵」を持ち出さずにこれを定義する必要があるが、そもそも地方経済すら維持できないのに国家について語るのは難しいのではないだろうか。
一方のリベラル側の政治家は現状に即した福祉態勢や社会体制を西洋諸国からコピペすればよい。ただ、リベラル側の人たちは国民の意識を変革する必要がある。これは意外に難しい。ファックスさえ手放せない人たちが容易に近代型の価値観を受け入れるとは思えないからである。
いずれにせよ、現在の保守・リベラルの議論は膠着しており出口が見えない。だが「こうあるべきだ」という思い込みを捨てて見ると、状況がかなり簡単に整理できることがわかる。現在の議論の根源はバブル期に起きた「修正日本型資本主義」の破綻なので、この先「先に進むか戻るか」を決めれば良いということになる。