本日のお題は「民主主義の死」である。最終的には暮らしの議論すらできなくなったという点を指摘するのだが、話の枕として東京大学卒の想田和弘というジャーナリスト・映画監督の方のツイートをご紹介したい。作品は見たことがないが、Twitterの左翼界隈でよく取り上げられている方のようである。
この方が安倍政権は独裁を指向しているというツイートを流していた。政治学者に問いかけているようである。「何を言っているのだろうか」と思った。独裁を指向しているのは自民党ではなく国民だからだ。
特に政治史などを勉強しなくても日本がやや開発独裁寄りの一党独裁を指向してきたのは歴史的事実である。戦前は二大政党制だったのだが、問題解決ができず破綻した。そのあとにできたのが大政翼賛会体制だった。この大政翼賛会の議会下で官僚が主導した国家社会主義的な体制が出来上がる。主な国家の産業は戦争である。この体制が一部戦後に持ち込まれて通産省が企業を主導するJapan Inc体制が作られたので、戦前からの一貫性を考慮して「1940年体制」などと呼ばれる。
国民はこの一党独裁をおおむね支持してきた。自民党は社会党の政策を横取りするような形で福祉体制を充実させたり、地方に富を分配することで政権を安定させた。また、共産主義が蔓延しないように労使協調体制が作られた。自民党の政治は最初からポピュリズムの混じった一党独裁体制だったといえる。このような背景があるので国民の間に自発的な政策論争ができる下地ができなかった。お任せですべてやってもらえたから、政策論争や選択をする必要がなかったのだ。
しかし自民党は既存の小さな産業集団に支持されてきたので構造改革ができなかった。また、金権政治が蔓延しても自浄作用が働かなかった。バブル崩壊後の政治課題を解決できなかったことで国民の怒りを買った。だが、議論によって政治を進めるような素地もなかったために、二大政党制も育たなかった。
結局政権選択が破綻すると、日本人は昔に戻ればすべての問題が解決するのではないかと思い始める。これについて想田さんは面白いことをいっている。日本は中国のような独裁なるのかというよう指摘である。第一に中国は所詮独裁国家であって日本は民主主義体制だったというようなことが言いたいのだろうとは思うが、日本が議論による民主主義国家だったことはなく、その意味では中国とあまり変わらない。中国と決定的に違うのは新疆ウイグル自治区のような資源収奪目当ての植民地息を持たない点くらいのものではないだろうか。今の中国は海岸部に限ると日本よりも先進的な国家であり日本よりも明確な開発独裁体制にあるというだけの話である。だが、日本人は中国は遅れていて民主主義も行き届かない野蛮な国だと思いたいのかもしれない。
日本が再びオリンピックを誘致したいと考えるのは、あの頃のような状態を作ればまた高度経済成長が起こるだろうと期待しているからだろう。が、戻っても製造大国なので賃金は中国と対抗することになる。だから、日本の政治は賃下げを模索して残業代の削減や労働法規の骨抜きを図っている。古くからの産業構造とネトウヨに支持されている自民党はサービス産業型の国家体制は作れないし、既存産業の労働組合に支えられている野党にもそれはできないだろう。
つまり、想田さんの指摘はある意味惜しいところに来ている。問題なのは自民党が独裁をやりたがっていると誤認しているという点だけだ。実は有権者が独裁を求めているのである。それは日本人が政策議論ができないからだ。
では、日本人はどの程度政策議論ができないのか。「命に関わる」とされる大切な水資源の問題について見てゆこう。自民党は口下手で意欲もないので説明ができず、また有権者も政策が理解できないという現場である。
自民党は今回の水道広域化の議論で地方に対してリーダーシップを発揮することができなかった。地方政治と癒着しているからだろう。そこで民間企業を通じて結果的に広域化を進めるという手段に出た。もしかすると、水道を利権化しようという気持ちを持った人もいるのかもしれないし、これを計画した人たちの意図が理解されていない可能性もあるのだが、説明してくれないので何がどうなっているのかはよくわからない。
この議論は民営化によって水利権が外国に売り飛ばされるという陰謀論に矮小化されてゆく。発想の元になっているのは、2013年の麻生財務大臣がアメリカで行った演説のようだ。だが、民営化が主な議論ではないので「マスコミで取り上げられない」と吹き上がってしまった。
例えば災害時に水道が使えなくなるという話がある。これは法案に災害時対応が書いてあるようなので誤解と言って良い。さらに改善の可能性もある。現在市町村が単独で水道を提供しているところに震災が起こると水の供給ができなくなる。もし広域化が進んでいれば複数水源が持てる可能性が高まるので冗長性が高まり融通がきくようになるかもしれない。実は契約によっていくらでも改善ができる問題なのだ。
ただ、手放しで「安心だ」とも言い切れない。水道施設が生きていれば「災害のために無料開放してくれ」と言えるかもしれないが、災害で浄水場が壊れた場合に自治体が「今すぐ修復するように」と命令はできないかもしれない。結局、災害時に使えなくなったという可能性もあるだろうし、最悪の場合には企業が撤退する恐れもある。
最近、外資系スーパーの撤退が問題になっているが、スーパーマーケットは事実上の地域インフラになっていると言っても良いが、これと同じことが水道でも起こる可能性はある。スーパーは撤退したら別の店に行けば良いが、水道はそういうわけには行かない。
いずれにせよ、こうしたことは各自治体が決めることであって、国が一律にどうしろとは言えない。だが、あまりにもざっくりとした法案が性急に審議されているので、国民の懸念が共有されることもなく従って説明もされない。少なくともTwitterのようなネット言論空間で自民党を支えている政策を理解しないネトウヨが政策を説明してくれることはない。
水利権について言及している人もいる。水源地の井戸などが使えなくなるのではないかというのだ。アメリカで企業が水源地を押さえてしまい使えなくなってしまったという人がいる。日本のコンセッション方式は水道インフラは自治体が持ち営業権だけ譲渡される形だ。契約によるのかもしれないが、水源地が企業に押さえられるということはないのではないかと思う。
ただ実際の水利権は複雑である。大阪日日新聞というウェブサイトによると守口市は淀川の水利権を持っているので市民は安い水を飲めるが、隣の門真市は淀川の利権をもっていないので高い価格で水を買っているとのことである。大阪で広域化が進まないのも広域化で損をする自治体がでてくるからなのかもしれない。
政府はこうした水利権の整理を諦めて私的事業団が「結果的に広域化」することを目指したのではないかと思う。が、いかんせん細かい情報は全く伝わってこないし、これからどのような議論が期待されているのかもよくわからない。
水道議論は、イニシアティブとしてはよかった水道広域化の話が、政府の稚拙な議会運営とおそらく政治家の私的な利権獲得のためと思われる諸々の<工夫>によってズタズタにされてしまったという話である。さらに政権維持意欲のない安倍首相によって放置されているのだろう。おそらく安倍首相は数年前から統治に興味を失っているのだろう。今回の豪雨被害でも統治者として振る舞うことはなく記者たちに写真を撮影させるために数時間倉敷にでかけただけだった。困った人の前で救世主として振る舞えるのだから自己愛の強い指導者気質の人にとっては豪雨被害はおあつらえ向きの劇場になったはずだが、彼はそれに興味を持たなかったのである。
かつて日本の政治家の間にも二大政党制を作ろうという意欲があったのだが、結果的には二大政党制は根付かなかった。それは国民の多くが黙っていても利益配分してもらえる開発独裁的な政治体制を支持していて、人物本位の選挙を行っているからである。好きな人はいつまでも政権を支持し嫌いな人は感情的な反発を見せるというのが現在の国政のあり方だろう。
二大政党制が根付くためには政策論争を通じて政権選択が起こらなければならない。だが、日本人はマニフェストを読んで選挙に行くというような面倒なことはしたくなかった。日本人が政策検討を嫌がるというと「自虐史観だ」と言われるかもしれないのだが、逆に問いたいと思う。「命に関わる」とまでいうのなら、なぜ自分から情報をとって問題を検討しようと思わないのだろうか。日本人は取り立てて生活に関わるような政治には興味がないのだ。