水道民営化でプロパガンダに依存する自民党政権の手口

水道広域化・民営化の議論について見ている。日本人は昔から水害のコントロールを試み、安定した水の確保ができないか試行錯誤を繰り返してきた。だから水の議論は特に政府批判をまぜこまなくても面白いし、日本人が優れた土木技術を持っていても「たかが水」に長年苦しめられてきたことがわかる。水は政治そのものと言って良い。

今回見たいのは、なぜ日本の政治議論が膠着するかという点である。これも水の議論から見えてくる。基本的に言えるのは日本人の政治議論は「何も決めないため」のものになるということだ。西洋人は決めるための議論をするのだが、日本人は何もしないことを決めるために議論をするのである。

このため政府・自民党は危機を煽る「プロパガンダ」を利用して政治課題を解決する道を選んできた。最近ではショックドクトリンという言葉が使われるようだが、原典とは違った使われ方がしているかもしれない。

政府が水道広域化の議論をうまく説明できなかった理由は二つありそうだ。一つは安倍政権が統治への興味を失っているという点がある。安倍政権は政権の存続にしか興味がなくなっている。おそらく政党内の権力闘争に耽溺しているのだろう。

ただその背景には、政府が地方の利権を整理できないという昔ながらの問題がある。これが政権が政策を説明しないもう一つの理由になっているようだ。地方の利権の問題は整理できないが、どうにかして自分たちの利権を混ぜ込みたいという政治側のニーズもあり、今のような民営化を混ぜ込んだ議論ができたのではないかと思う。

だが、説明の不在は民営化によって命の水を奪われるという強迫観念めいた反発を生んでいる。人口が減少してゆく中で福祉財源が維持できなくなっている上にグローバリゼーションも進展しているので、こうした恐れがフランケンシュタインのように一人歩きしているようだ。

前回はこのこととマニフェスト選挙が根付かなかったことに関連づけ「日本人は政治的議論ができない」というような話にまとめた。これでは意思決定ができないので「日本は大変なことになるだろう」と結論付けた。

だが、実際には政府には考えがあるようだ。政府は何もしない上に政策を理解しようという意欲もない有権者に対して、危機感を煽って答えを求めさせるという手法をとって納得させるのである。

フジテレビでは神奈川県大井町の水道について紹介していた。日本では水道料金がかつてなく値上がりしておりこのままでは大変なことになるとほのめかした後で、大井町の事例を取り上げていた。大井町は今年の4月に水道料金を値上げしたばかりだという。神奈川県では横浜市にも水道料金値上げの動きがあるようだ。こうして徐々に水道が大変なことになるかもしれないという危機感を煽るのだろう。

このプレゼンテーションには解決策は提示されていなかった。このまましばらく水道料金の値上げについての報道を続けて、それがある程度の危機感を醸成したところで、実は政府は広域化・民営化の議論を進めていますと言えばよいのだ。多くの国民は「ああ政治に任せておけば問題は解決するのだ」と考えてくれるだろう。神奈川県では調停できなかったがさすがに国が出て来れば解決するのだなと多くの人に思ってもらえるかもしれない。

危機感を煽るという方法は北朝鮮問題でも使われた。政府としてはアメリカのいいなりにミサイル防衛システムを入れたかったのだが、国民の反発を招きかねない。そこで「ニュース」としてJアラートの訓練などを流したり、はるか彼方の宇宙空間にミサイルが飛んだことを取り上げて危機感を煽ってきた。状況が変わっても導入を進めようとする姿勢に秋田県は反発を強めているようだ。菅官房長官が「地元に理解してほしい」と言っている。だが、これも「国が大所高所から決めたありがたい政策なのに秋田県が文句を言っている」というふうに見せれば他県の人たちは納得してくれるだろう。沖縄の基地問題も同じで「中国が大変なのに沖縄が文句を言っている」という図式が作られている。みんなのための政策に誰かが文句を言っているというわかりやすい絵を作るわけだが、実際には他の誰も動かなくて済むという図式になっている。

このことからわかるのは日本型の政治は専制政治でもなければ一党独裁でも実はないということである。どちらかといえば「国民がいろいろと面倒なことを考えたくないし、動きたくもない」と考えており、あまり考えさせない政府が良い政府だと思われているのではないかと思える。つまり、国民は「自分二関係がなければ自然に問題が解決される」ことを望んでいるのだろう。

民主党はここで失敗した。テレビで危機を煽るという点までは共通していたが、政権についた時にソリューションを提供しなかった。彼らがやろうとしたのは国家戦略室(局)というユニットを作って「答えを探す」ということだったのだが、国民が求めたのは「自分は何もしなくても今すぐみんなが納得できる解決策」を提示してくれる「親切な」政府だったのだろう。政権選択は結局「自分が動かざるをえなくなることである」ということがわかったので民主党は排除されてしまったのだ。

そう考えると政治というのは二時間推理ドラマのようなものだ。有権者は視聴者のようなものであり、筋が理解できなくても、危機が起こり、探偵がそれを解決するという運びになっている。視聴者がこうしたドラマを好むのは何もしなくても問題解決の爽快感が得られるからだろう。

ではなぜ日本人はこうしたプロパガンダを好むのだろうか。これを考えるとショックドクトリンとの違いが見えてくる。ショックドクトリンは政権がより強いリーダーシップを求めてショックによって主権者の権限を縮小してゆくという手法だった。だが、日本ではそうはならない。実質的な権限は小さな単位が持っているからである。

日本人は自分と共通点がない他人には極めて冷笑的に距離をとるので特定の政治家に期待してプロパガンダに乗って騒ぎ出すようなことはない。これが南米的なポピュリズムに陥らない理由だろう。良い意味でも悪い意味でもバラバラなのが日本人である。サッカーやオリンピックで一体感を得ることがあると思う人もいるかもしれない。しかしそれは「酔っ払ったから昨日のことは何も覚えていない」という上司の言葉を鵜呑みにするような愚かな言動だ。束の間の一体感を得た国民が明日から一致協力して一つのプロジェクトに向かってくれるなどということを信じる馬鹿な人はいない。それはあくまでも「一体化しているフリ」である。

これがわかる事例もまた「水関連」から見つけることができる。50名近い死者が出た倉敷市真備町にももともと河川付け替えの計画はあったようだが、50年間もたなざらしになっていた。背景にあるのは地元の利権争いだそうだ。倉敷市船穂町は河川を付け替えても「得をするのは真備町」ということになり計画が進まなかったという。今回50名近くが亡くなっているのでプロジェクトは動き出すだろうが、結局、犠牲が出るまで誰も動かないということになる。つまり、日本人はわかっていても明確な犠牲が出るまで何もしない。そして何もしない理由を探すために議論を用いるのである。

日本人はショックを受けるまでなにもしないという事例で思い出されるのが去年の暮れ頃からみていた相撲である。結局、相撲改革は頓挫した。貴乃花親方は一家をたたみ全てはもとどおりになったように思われた。長い議論の結果彼らは「何もしない」ことを選択したのである。しかし、その結果一人の横綱はいなくなり、残りの横綱も全員休場することが決まった。何もしないことで相撲は衰退するだろう。だが、これが日本型村落が選択する唯一の道なのである。

何もやりたくない国民は細かな政権のミスをあげつらって「悪いのは安倍政権だ」と思い込もうとする、一方で動いてくれない国民を動かすために政権はポイントシステムを使って政策誘導したり、ショック療法的なプロパガンダ手法を多用するようになる。しかし、そうした安易な手法はいわば麻薬のような作用を持っている。薬が切れれば長い停滞した状態に戻ってしまうのである。その意味では日本はすでに薬漬けの状態にある。

日本が成長しない理由はこの辺りにあるのかもしれない。

暮らしの基本的な議論すらできなくなった日本人

本日のお題は「民主主義の死」である。最終的には暮らしの議論すらできなくなったという点を指摘するのだが、話の枕として東京大学卒の想田和弘というジャーナリスト・映画監督の方のツイートをご紹介したい。作品は見たことがないが、Twitterの左翼界隈でよく取り上げられている方のようである。

この方が安倍政権は独裁を指向しているというツイートを流していた。政治学者に問いかけているようである。「何を言っているのだろうか」と思った。独裁を指向しているのは自民党ではなく国民だからだ。

特に政治史などを勉強しなくても日本がやや開発独裁寄りの一党独裁を指向してきたのは歴史的事実である。戦前は二大政党制だったのだが、問題解決ができず破綻した。そのあとにできたのが大政翼賛会体制だった。この大政翼賛会の議会下で官僚が主導した国家社会主義的な体制が出来上がる。主な国家の産業は戦争である。この体制が一部戦後に持ち込まれて通産省が企業を主導するJapan Inc体制が作られたので、戦前からの一貫性を考慮して「1940年体制」などと呼ばれる。

国民はこの一党独裁をおおむね支持してきた。自民党は社会党の政策を横取りするような形で福祉体制を充実させたり、地方に富を分配することで政権を安定させた。また、共産主義が蔓延しないように労使協調体制が作られた。自民党の政治は最初からポピュリズムの混じった一党独裁体制だったといえる。このような背景があるので国民の間に自発的な政策論争ができる下地ができなかった。お任せですべてやってもらえたから、政策論争や選択をする必要がなかったのだ。

しかし自民党は既存の小さな産業集団に支持されてきたので構造改革ができなかった。また、金権政治が蔓延しても自浄作用が働かなかった。バブル崩壊後の政治課題を解決できなかったことで国民の怒りを買った。だが、議論によって政治を進めるような素地もなかったために、二大政党制も育たなかった。

結局政権選択が破綻すると、日本人は昔に戻ればすべての問題が解決するのではないかと思い始める。これについて想田さんは面白いことをいっている。日本は中国のような独裁なるのかというよう指摘である。第一に中国は所詮独裁国家であって日本は民主主義体制だったというようなことが言いたいのだろうとは思うが、日本が議論による民主主義国家だったことはなく、その意味では中国とあまり変わらない。中国と決定的に違うのは新疆ウイグル自治区のような資源収奪目当ての植民地息を持たない点くらいのものではないだろうか。今の中国は海岸部に限ると日本よりも先進的な国家であり日本よりも明確な開発独裁体制にあるというだけの話である。だが、日本人は中国は遅れていて民主主義も行き届かない野蛮な国だと思いたいのかもしれない。

日本が再びオリンピックを誘致したいと考えるのは、あの頃のような状態を作ればまた高度経済成長が起こるだろうと期待しているからだろう。が、戻っても製造大国なので賃金は中国と対抗することになる。だから、日本の政治は賃下げを模索して残業代の削減や労働法規の骨抜きを図っている。古くからの産業構造とネトウヨに支持されている自民党はサービス産業型の国家体制は作れないし、既存産業の労働組合に支えられている野党にもそれはできないだろう。

つまり、想田さんの指摘はある意味惜しいところに来ている。問題なのは自民党が独裁をやりたがっていると誤認しているという点だけだ。実は有権者が独裁を求めているのである。それは日本人が政策議論ができないからだ。

では、日本人はどの程度政策議論ができないのか。「命に関わる」とされる大切な水資源の問題について見てゆこう。自民党は口下手で意欲もないので説明ができず、また有権者も政策が理解できないという現場である。

自民党は今回の水道広域化の議論で地方に対してリーダーシップを発揮することができなかった。地方政治と癒着しているからだろう。そこで民間企業を通じて結果的に広域化を進めるという手段に出た。もしかすると、水道を利権化しようという気持ちを持った人もいるのかもしれないし、これを計画した人たちの意図が理解されていない可能性もあるのだが、説明してくれないので何がどうなっているのかはよくわからない。

この議論は民営化によって水利権が外国に売り飛ばされるという陰謀論に矮小化されてゆく。発想の元になっているのは、2013年の麻生財務大臣がアメリカで行った演説のようだ。だが、民営化が主な議論ではないので「マスコミで取り上げられない」と吹き上がってしまった。

例えば災害時に水道が使えなくなるという話がある。これは法案に災害時対応が書いてあるようなので誤解と言って良い。さらに改善の可能性もある。現在市町村が単独で水道を提供しているところに震災が起こると水の供給ができなくなる。もし広域化が進んでいれば複数水源が持てる可能性が高まるので冗長性が高まり融通がきくようになるかもしれない。実は契約によっていくらでも改善ができる問題なのだ。

ただ、手放しで「安心だ」とも言い切れない。水道施設が生きていれば「災害のために無料開放してくれ」と言えるかもしれないが、災害で浄水場が壊れた場合に自治体が「今すぐ修復するように」と命令はできないかもしれない。結局、災害時に使えなくなったという可能性もあるだろうし、最悪の場合には企業が撤退する恐れもある。

最近、外資系スーパーの撤退が問題になっているが、スーパーマーケットは事実上の地域インフラになっていると言っても良いが、これと同じことが水道でも起こる可能性はある。スーパーは撤退したら別の店に行けば良いが、水道はそういうわけには行かない。

いずれにせよ、こうしたことは各自治体が決めることであって、国が一律にどうしろとは言えない。だが、あまりにもざっくりとした法案が性急に審議されているので、国民の懸念が共有されることもなく従って説明もされない。少なくともTwitterのようなネット言論空間で自民党を支えている政策を理解しないネトウヨが政策を説明してくれることはない。

水利権について言及している人もいる。水源地の井戸などが使えなくなるのではないかというのだ。アメリカで企業が水源地を押さえてしまい使えなくなってしまったという人がいる。日本のコンセッション方式は水道インフラは自治体が持ち営業権だけ譲渡される形だ。契約によるのかもしれないが、水源地が企業に押さえられるということはないのではないかと思う。

ただ実際の水利権は複雑である。大阪日日新聞というウェブサイトによると守口市は淀川の水利権を持っているので市民は安い水を飲めるが、隣の門真市は淀川の利権をもっていないので高い価格で水を買っているとのことである。大阪で広域化が進まないのも広域化で損をする自治体がでてくるからなのかもしれない。

政府はこうした水利権の整理を諦めて私的事業団が「結果的に広域化」することを目指したのではないかと思う。が、いかんせん細かい情報は全く伝わってこないし、これからどのような議論が期待されているのかもよくわからない。

水道議論は、イニシアティブとしてはよかった水道広域化の話が、政府の稚拙な議会運営とおそらく政治家の私的な利権獲得のためと思われる諸々の<工夫>によってズタズタにされてしまったという話である。さらに政権維持意欲のない安倍首相によって放置されているのだろう。おそらく安倍首相は数年前から統治に興味を失っているのだろう。今回の豪雨被害でも統治者として振る舞うことはなく記者たちに写真を撮影させるために数時間倉敷にでかけただけだった。困った人の前で救世主として振る舞えるのだから自己愛の強い指導者気質の人にとっては豪雨被害はおあつらえ向きの劇場になったはずだが、彼はそれに興味を持たなかったのである。

かつて日本の政治家の間にも二大政党制を作ろうという意欲があったのだが、結果的には二大政党制は根付かなかった。それは国民の多くが黙っていても利益配分してもらえる開発独裁的な政治体制を支持していて、人物本位の選挙を行っているからである。好きな人はいつまでも政権を支持し嫌いな人は感情的な反発を見せるというのが現在の国政のあり方だろう。

二大政党制が根付くためには政策論争を通じて政権選択が起こらなければならない。だが、日本人はマニフェストを読んで選挙に行くというような面倒なことはしたくなかった。日本人が政策検討を嫌がるというと「自虐史観だ」と言われるかもしれないのだが、逆に問いたいと思う。「命に関わる」とまでいうのなら、なぜ自分から情報をとって問題を検討しようと思わないのだろうか。日本人は取り立てて生活に関わるような政治には興味がないのだ。

水道事業について調べる – 大阪府と千葉県の比較

水道の民営化に関する漠然とした議論を見たので、ついでに地域の水道がどうなっているのか調べてみることにした。政権批判は出てこないので、そういう類のものを期待している人は今回お休みをしてもらって構わない。一方で、この問題には地域差があり大阪の人はさらにひどい目にあうことになるだろう。すでに維新の会が府政を混乱させているようだが、選挙に是が非でも勝ちたい公明党が出てくることでそれ以上に混乱するのではないかと思う。逆に「命の水」を外国に奪われなくて済む自治体もありそうだ。意外な視点なのだが、水道民営化の議論は地域によって状況が異なるのにすべて国政が決めているという弊害が出たケースとも言える。これに成果が上がらない反安倍の人たちが乗っかって騒いでいるという事例なのかもしれない。

政令指定都市としての千葉市の人口は100万人に少し足りない程度だが千葉市の水道局の給水範囲は30%程度しかない。もともと郊外にある土気町を合併した時に土気町の水道を引き継いだのが始まりである。さらに若葉区に未給水地域が残っておりそこにも水道を引く必要があり業務が一部拡大された。

その他の地域は千葉県の水道局が担当している。もともとは千葉市から東京よりの水道を整備する目的で作られ、のちに北総地区の事業と統合された。飲料水と工業用水の事業を手掛けている。千葉市は利根川水系の一部にあたる花見川沿いにある柏井から水を供給しており、足りない場合は房総半島にある養老川から持ってきているようである。養老川はかなり遠い地域なので途中の誉田(ほんだ)に中継点があるようだ。東葛地域は江戸川経由で給水でき、北総は利根川から水が取れる。

千葉県の水道事業に関して赤字問題を聞いたことがなかったので調べてみたところ冒頭にこのように書かれていた。

千葉県水道局では、地方公営企業として、上水道事業及び工業用水道事業を運営しています。

上水道事業は、安全でおいしい水の安定供給を継続していくため、経営基盤の強化に努めており、平成28年度決算の純利益は、約112億円となりました。

また、平成28年度から県水道局が事業を担っていくことになった、工業用水道事業の決算の純利益は、約14億円となりました。

現在、両事業とも計画的な事業の運営を行い、安定経営を行っているところですが、今後、老朽化した施設や管路の更新・整備が増加していくことから、中長期的な視点に立って、一定の内部留保資金を確保しながら、引き続き健全経営の確保に努めてまいります。

つまり黒字な上に設備投資のための準備もしているようだ。もともと広域化されていたという背景があるのかもしれない。もちろん採算が取れなさそうなところに給水していないという問題もある。千葉市の水道収支を見ると収入と支出が全く一緒の額になっている。

一方、大阪はどうなっているのだろうか。高槻市は高槻市水道局が全域を管理しているようだ。しかし浄水場が一ヶ所しかなく、茨木市も同じところを使っているようである。そこで調べてみたところ千葉県とは全く状況が違っていた。大阪広域水道企業団という団体が取水を管理しており水を市町村に「卸して」いるらしい。この事業の事業内容について見てみたが「水道普及率」については書いてあるが、収益については冒頭に言及がない。

広域化について書かれたセクションの次に次のような控えめな文言を見つけた。

平成 28 年度決算は 27 年度と比べ、料金収入の減等により事業収益は減少しました。 一方、事業費用も減価償却費等の減等により減少したことから、74 億9千万円の単年度黒字と なりました。 なお、平成 28 年度末の累積損益は 61 億円の赤字となっていますが、中期経営計画(2015- 2019)期間中に累積損益の赤字を解消する見込みです。

設備投資を終えて負担が減ったために減価償却費がなくなり単年度黒字になったと言っている。がそれでも過去の累損が残っている。減価償却費はキャッシュの流出を伴わないので過去の帳簿上の処理であることから事業年度ベースで見ると黒字化が進んでいるということがわかる。

だが、ここからは各市水道局の損益はわからない。また設備の更新のための内部留保もない状態なのだから設備更新が難しいだろうことは予測できる。人口が現象に転じると水需要は落ち込むために古い浄水設備の更新ができないままで問題が先送りされる可能性もある。

千葉県はほぼ一体的に水事業が統合されているために広域経営が可能なのだが、大阪の場合「浄水施設を新しくします」と広域側が主張しても、使用側が「そんな金は出せない」と言い出すかもしれない。自分たちの市域の水道管を先に整備したい上に、水道料金の値上げは住民の反発を招きかねないからである。つまり民主的な話し合いによって解決することも難しければ、経営合理性によって経営を刷新することもできない。ある意味で国政の縮図のような状態になっているのである。

前回見た「水道広域化」の問題の意味がわかってくる。政府は「都道府県が主体となって広域化を進めなさい」と言っているのだが、実際にはうまく広域化ができている地域とそうでない地域の格差をなくしたいのだろう。だが実際の大阪をみていると協力は一向に進まず、府民も政治に関心がないために、テレビで見た有名な政治家が「一発逆転」してくれるのを夢見ることになってしまう。

問題は過去の累損の解消であるということもわかる。仮に給水事業の営業だけを私企業に売り渡してしまうと、累損はそのまま地域に残り「不良債権化」することも考えられる。これを水道料金に転嫁すると政治問題ではなくなるのだが、地域住民はこれまでの損を水道料金として清算せざるをえなくなる。ある意味「飛ばし」に近い考え方である。

話を複雑にしているのが地域ビジネスに参入してノウハウを貯めたい人たちと「岩盤規制」を取り除くことで新しい利権を作りたいと考える国政の政治家たちの存在だろう。広域水道は利権にならないが、企業が入れば行政指導などを通して利権構造が作られる。しかしよく考えてみると利権を確保し続けるためにはそれなりの「上納金」を政治家に支払うことになるわけで、それも水道料金に上乗せされることになる。

このことを念頭に日本政策投資銀行が書いたレポートを読むと、こうした細々とした地域構造を残しつつ大企業に委託すれば「結果として広域化が実現する」というような書かれ方をしていることがわかる。つまり、政治調整の失敗を棚上げして民間に丸投げしようとしているのだ。

ただ、このやり方がうまく行くとは思えない。なぜならば収益が上がっており広域化も住んでいる地域がリスクを冒してこうしたコンセッションに参加するとは思えないからだ。一方過疎地を抱える自治体や広域化が失敗したところは私企業に経営を丸投げしようとするだろう。鉄道に例えると新幹線を持っているJR東日本や不動産で成功しているJR九州は参加せずに、JR四国とJR北海道だけが参加した鉄道会社のようなものである。

赤字と赤字を積み重ねても黒字にはならない。今回の政策は総論としては正しいが実際には成功の見込みが薄いと言える。そして、その被害を受けるのは大阪のように効率化が進んでいない自治体や地方の過疎地域の住民だろうことが容易に予想される。

水道民営化の是非について考える

水道民営化の議論が進んでいるという。だが、この問題についてテレビや新聞で議論しているのを見たことがない。その一方でTwitterでは「命の水を売り渡すな」という過激な言動が飛び交っている。一部の左派系議員もこれに同調する。「安倍政治が外国に日本人の命を売り渡している」という印象を作りたいのだろう。

実はこの議論を見て分かるのは安倍政治の腐敗ではない。それは政治の無気力化である。与党の側は民間業者を導入すればたちどころに問題が解決すると考えている。公明党は選挙で弱い地盤にくいこめるという目論見もありそうだ。一方で野党の側は「水インフラをどう維持してゆくのか」という提案ができずにいる。結局、国政はこの問題を地方行政と民間に丸投げすることで逃げようとしているのである。

これに加えていつものような稚拙な政治家のコミュニケーション能力が反発に輪をかけている。

麻生太郎財務大臣が水道民営化について言及し「命を売渡すのか」という懸念が広がっているというのだが、実はこれは2013年の発言である。なぜアメリカのシンクタンクでこのような話をしたのかはわからないし、麻生さんはあの調子なので誠実に説明することはないだろう。そこで「外資に日本の魂を売り渡そうとしている」という論調が生まれた。この情報源を読んでみたのだが国の資産から水道を切り離すことで将来の負担を減らそうとしていると書いているのだが、水道事業を持っているのは地方行政なので、そもそもこの論は成り立たないのである。

公明党はこれを選挙メッセージにしたいらしい。政府としてもこの要請に沿って「大阪北部地震で老朽化対策が必要だということが認知された」ととってつけたような説明しているようだ。

外資ばかりが水道事業に参入するという決めつけも間違っている。そもそもの主眼は広域化である。日経新聞は水道事業運営の広域化の「ついで」に運営を民間に売却できるとしている。開発途上国相手に公共インフラを輸出したい日本企業は「まずは日本で成功体験を作ってから横展開したい」と考えているのだろう。フランスの2社が水ビジネスの勝者になれたのはフランスで民営化が早くから進んだためである。日経新聞の別の記事によると外国の官庁との交渉経験が豊富な総合商社が水ビジネスに熱い視線を注いでいることわかる。

財界が水ビジネスの民間参入に期待しているという背景があり日経新聞はあまり踏み込んで書けないのだろう。一方で、産経新聞は民営化は住民の抵抗感が強いということを認めている。「災害時の水も有料になるのか」と言うTwitterのコメントを見かけたが、水はそもそも有料な上にインフラをすべて手放してしまうわけでもなさそうである。

水道法改正案では、事業者に対し「水道の基盤強化」への責務を規定。特に都道府県には、基盤強化計画の策定など広域連携の推進役としての役割を盛り込んだ。もう一つの鍵は「民営化」。ただ、水道の民営化には住民の抵抗が強い。法案には「市町村が経営」という原則を維持したまま、運営権を企業に売却した場合でも、災害時などに自治体が責任を負える形にし、官民連携を記した。

IMFが日本支配を企んでいると書いている人もいるのだが、IMFが水道事業を民営化したいのは開発途上国では行政基盤も住民監視も脆弱なので水道行政が著しく不効率になるからである。支援対象者が効率的な運営ができないと援助が効率的に行えない。グローバリズムを「大企業の金儲けだ」と思いたい人にとってはコチャパンパの事例はグローバリズムの失敗例としてうってつけである。だが、実際にはコチャパンパの水道普及率は極めて低く、そもそも水が得られない人たちが多かった。これを普及率の高い日本に当てはめるのには無理がある。

先進国にとって重要なのはすでにできた水道管の維持管理である。水道はもっとも早く普及したインフラなので効率化が進んでいない。そこで水道民営化推進論者はビジネスチャンスの増加などを期待しつつ広域化のメリットを次のように挙げている。現在の地方自治体単位の水道事業は効率が悪いので広域化して集約を行うことで効率的な水道事業運営ができるだろうと言うのだ。国としては県の単位まで広げたいらしい。確かに自治体がそれぞれ水道技術者や整備のための機材をを抱えるよりは集約した方が良いだろうということはわかる。

立憲民主党と国民民主党はコンセッション方式のみを除外した対案を提出したという。コンセッション方式は後述するように問題が多い。かといって地方自治体が「下請け的」に水ビジネスを民間委託しても参入する業者は多くないだろう。そもそも、民間業者は儲けなければならない上に水道事業は今でも赤字事業なのだから水道料金は今よりも高くなるはずだ。民営化の成功例として語られるJR九州が成功したのは不動産ビジネスを手がけたからである。つまり税で補完するか他の事業から利益を転移させなければならないのである。外資の場合は日本で儲けられなければそのまま撤退してしまうはずである。つまり、コンセッション方式だけをやめても問題は何も解決しないのである。

また、条例さえ作ってしまえば議会承認が必要なくなるという問題もある。つまり議会で多数を握っている人たちが承認さえしてしまえば「後の面倒な議論はしなくても構わない」ということになってしまう。

コンセッション方式の問題

地方自治体がインフラを持ったままで運営と営業権だけを売り渡すコンセッション方式には問題が多い。市場化が起こらないからである。つまり地方自治体が独占している水道が独占状態のままで私企業に移管されてしまうからである。例えば二つの水道から好きな方を選べるなら安い方を選ぶだろうし、水にプレミアムを乗せてもよいという人は贅沢な水を飲むかもしれない。つまり、一つの家に二つ以上の蛇口がないと市場化が起こらないのである。

コンセッション方式では競争相手がいないために、水道運営会社はできるだけ水道施設整備をしないで、高い価格で水を買わせた方が良いという問題が起こる。コンセッション方式の問題点はすでにNewsweekでも指摘されているのだが、これについて与野党の政治家が議論したという形跡はない。そもそも国会では議論すら行われていないようなので、この問題はそのまま地方自治体に丸投げされることになりそうだ。そこで安易に国を信じて「国策だから」とコンセッション方式を採用してしまうと「あとは自己責任でやってください」ということになる。さらに議会にも諮らなくてよくなるので住民が関与できなくなってしまう。

外資依存の問題

次の問題が外資依存だ。麻生財務大臣がジャパンハンドラーとされるCSISで「水道事業を民営化する」と主張したのが問題になっているようだ。こうした発言は謀略論と結びつきやすい。だが実際にどのような意図でこのような発言をしたのかはよくわかっていないし、文脈についての考察もほとんどない。

実際に世界の水道事業は3社ほどの「ウォーターバロン」と呼ばれるプレイヤーがいるのは確かである。これがほとんどうまくいっておらず、中には再公営化した地域もある。日本の企業とは事業規模が全く違う。

地方自治体がこうした外国の企業に水道事業を委託すると何が起こるだろうか。最初のうちはうまくいくかもしれないが、水道事業は地域独占なので水道業者が利益追求に走れば水道代が値上がりする。それが株主の配当や高額の報酬につながっても地方議会は文句を言えない。それが問題になったところで業者の撤退が始まるだろう。ビジネスとして旨みがなくなってしまうからである。民間の撤退事例にはカルフールがある。地域の大型店は準インフラのような存在だったがあっさりと撤退してしまった。あまり大きな問題にならなかったのは国内にAEONという受け皿があったからである。仮に国内事業者が育っていないと水道維持の技術が国から失われることになるだろう。

この問題の背景にあるのは地方自治体が中途半端に市場に介入してしまうことの問題点である。BLOGOSはイギリスでは水道事業者の再編が起こる過程で「金融ギャンブル」が起きたそうだ。

監視と撤退の問題

地方自治や国政では、今でも情報隠蔽の問題が起きている。私企業が絡むと問題はさらに複雑化するだろう。情報隠蔽の例として有名なのがアメリカのフリント市の事例である。自動車産業が壊滅して貧困化が進み老朽化した水道管から鉛や消毒剤が変化した発がん性物質の入った有毒の水が流される事態に発展した。水質の悪い川に水源を付け替えたことで問題が深刻化したという。だが、有毒の水が流れているということがわかっても改築のめどが立たない。フリント市では問題が認知されるまでに長い時間がかかった。WIREDの記事によると同じようなことは別の街でも起きていたようだ。

それから30年後のワシントンで、彼は生物の共生と同じくらい不安定かつ非常に高額な金の絡んだシステムを修復しようとしていた。エドワーズはヴァージニア工科大学のオフィスから、州政府と連邦政府に対して情報公開法にもとづいた開示請求を行った。それが受け入れられるまでに5年かかったが、大規模な鉛害を証明するデータの全貌が明らかになった。議会の追及により、ワシントンの地方自治体は長年にわたって水質調査の結果を無視し続けていたことが明らかになった。数百人どころか、数千人規模の子どもたちが被害を受けていた。

この事例だけを見ると意識の低い地方自治体よりも私企業の方がうまくやるだろうと思えるのだが、自治体が「税収が安定しないから」という理由で民間に事業を丸投げして同じような問題が起きたらどうなるだろうか。私企業を監視するのは地域住民ではなく株主なので、安心安全より営利が問題になるだろう。

オバマ大統領はフリント市の問題について抜本的な解決はできず、共和党の政策を避難した上で「フィルターを買えば安心して飲めますよ」というパフォーマンスを行ったにすぎなかった。結局、ミネラルウォーターを無償提供することで問題を解決したようだ。日本も広域化を進めないと同じような問題が起こる。しかし、広域化した上で私企業を加えても問題が大きくなるだけである。フリント市は市域で問題が起きただけだったが、これが例えば和歌山県や高知県全域で起きたらどうなるか想像してみていただきたい。

では、現在の市民生活はどうなっているのかというと、全国の民間企業から何百万という単位で「ミネラル・ウォーターの無償提供」がされているので、当面の飲み水には困らない状況です。ですが、「フリント川の汚染水」で極端に腐食の進んだ「市内に張り巡らされた水道の鉛管」を交換するような財源はどこにもない中で、安心して飲める水道水が戻ってくるというメドは立っていません。

BLOGOSの記事ではパリは住民が参加することで経営を見直してコスト削減ができたと書いてあるが、お任せ民主主義が徹底している日本では非難合戦だけが横行し現実的な解決策が得られない地域が続発しそうに思える。今でも日本では政治の問題の多くが見て見ぬ振りされている。森友加計学園問題では省庁間の責任の押し付け合いに「キャラの濃い」企業経営者までが出てきて大騒ぎになった。つまり、森友加計学園問題で起きているのと同じようなことが全国各地の自治体の水道で起こる可能性があるのだ。

実は問題の先延ばしをしているだけ

水道事業の問題は実際には問題を先延ばしにしているだけということになる。地方自治体は行き詰っており水道網を整備できそうにない。そこでその問題を解決するために「公費を使わないようにするにはどうしたらいいか」という<議論>が行われ、では民間活力を入れればなんとかしてくれるのではないかと着想したのだろう。確かにうまく行くところもでてくるかもしれないが、そうではないところが出てくるだろう。その時に、国や地方自治体が介入すると企業は撤退してしまうかもしれない。かといってそのまま放置すれば古い水道管が破壊されたり鉛が漏れ出すというようなことが起こる。

こうした一連の問題は全く議論されずすべて地方議会に丸投げされることになる。地上に出ているブロック塀の安全対策すらできないのだから地下に埋まっている水道管についてわかるはずもない。問題が出た時にいちいち騒ぎが起こるだろう。あるいみ民間事業を巻き込んでパンドラの箱を開けてしまったのである。