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野党の審議拒否はいいことなのか悪いことなのか

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野党が審議拒否に入ったようでTwitterでは「野党の職場放棄だ」とか「原因は自民党が作った」と割れている。これはいいことなのか悪いことなのかを考えようとしたわけだが、何を基準にして善悪を見て行けばいいのかわからない。

基準そのものをしばらく考えているうちに考察は意外な方向に進んだ。まず、日本人はこの内輪揉め自体を愛している。だがその姿勢は同時に国際社会からの排除につながっている。

さて、話を本論に戻す。国会が機能不全に陥るのは悪いことなのだが、自民党と公明党がいれば法案は通ってしまうわけだから実は政治にとっては「ニュートラル」な出来事でしかない。つまりどっちでもいいことになる。審議拒否によって決められない法案は「その程度のものだった」といえるだろう。

もちろん審議拒否すれば安倍政権の評価は下がるかもしれないが、野党の支持が上がるわけではない。野党にとっては得とは言えないが、これも「自民党から代わりの政権が出てくるんだろうな」と考えると、現状には何の変化も及ぼさず、従って「別にどうでもいい」ということになってしまう。

ここまで考えると「倫理的な良し悪しはわからないものの、結果だけを見るとどっちでもいい」ということがわかる。

では日本には解決する課題はないのだろうか。例をあげてみた。

  • 国際社会からは置いて行かれる。
  • 株を買って支えているだけの経済の立て直しが難しくなる。
  • 少子高齢化が進行する。

どれも日本人が見たくないものばかりである。これに最近の問題を加えてみる。

  • アメリカは貿易交渉を迫っている。
  • 北朝鮮情勢が変化しアジアに新しい枠組みができようとしている。

審議拒否をしている時間はないように見えるが、かといって日本がどうこうできる問題でもなさそうである。

ではどうしてこんなことが起こるのか。前回までは北朝鮮の問題を見ながら考えた。日本人は異質なものに囲まれてこなかったので過剰に敵と味方を区別したがるというような分析をした。しかし味方だと勝手に考えているのは日本人だけでアメリカからは「薄笑いを浮かべる気持ちの悪いやつ」と思われており、中国、韓国、北朝鮮の悪口を触れ回っているうちに「あの人たちは仲間に入れるのはやめておこう」と遠ざけられるようになった。

安倍首相の幼稚で頑なな「僕の友達、僕の敵」思考がどうやって育まれたのかは興味のある話題なのだが、同じようなメンタリティは野党の側にもある。野党の人たちも細かな違いにこだわりくっついたり離れたりしている。共産党は嫌だが人気のない第二自民党も嫌だ。だったらどっちにつこうかなといってうろうろとさまよっている議員が大勢いるのだ。戦略的に連携しようという人はいない。

ではなぜ戦略的に連携しようとする人はいないのか。それが今回の問題を考えるキーになる。

少なくとも審議拒否に陥る原因が「与野党どっちにあるのか」というのはかなり愚問だことがわかる。安倍政権は特に頑なな政権であり嘘をついても絶対に認めないし、野党の言い分を取り入れることを「敗北だ」と思っている。だが、野党の方も自民党の別のルートを使って妥協を探ったり違いを乗り越えて味方を増やすというようなことはやらない。

自分にも断絶した関係がある。そこで個人的に歩み寄れない理由を考えてみた。日本人はとくくっていいかもしれないと思うのだが、本質を理解しない。ただ「相手が怒ってはいるようだからとりあえずこれをいうのはやめておこう」という理解をするようだ。だから繰り返し問題が起こる。

「本質を理解しない」というと理屈っぽく聞こえるので、最近起きた事例をご紹介したい。長尾敬という自民党の議員がMeToo運動を揶揄して世間の反発を買った。彼は「セクハラ問題を無視するのはまずいな」ということまでは気がついたようだ。そこで「俺は絶対にセクハラしない」と宣言した。しかしそれがなぜ悪いのかということは全く考えなかったようだ。ワーワー騒いでいる女性議員は容姿に問題があると思ったのだろう。だから「あの人たちはセクハラからは縁遠い」と言ってしまった。オフィシャルな場では男女の違い考慮しないというのがセクハラ問題の「本質」なのだが、表面だけを見て全部理解できたと思い込んでしまう。だから同じような問題がいつまでもなくならない。

本質というのが大げさなら裏側にある原理と言っても良い。では、日本人が相手の行動の裏にある原理を理解できないのはなぜなのだろうか。それは原理を考えずに自分の常識を接ぎ木するからだろう。接ぎ木で構わないのは相手と自分の行動原理が似ているという環境に育ったからだ。

この能力は外国語の習得に似ている。英語が苦手な人は日本語の文章を英語でどう言えばいいのだろうかと考える。そして多くの人がここから抜け出せない。しかし日本人が英語ができないというのも嘘だ。高卒の野球選手の英語がメジャーリーグで通用することもある。英語が上達した人は最初から英語で考えているということである。

少し理屈っぽくなるがつまり「言語によらない考え」というものがあって、それを表現から分離することができれば2カ国以上を話すことができる。ネイティブ言語というのはこの考えと表現が一体化しているということだ。男性社会をネイティブ文化とする人が男女機会均等方時代を生きるということは外国語を話すというのに似ている。

その意味では長尾さんが「怠けているから失言する」というのではないかもしれない。他人との共感を結ぶという政治スキルに欠けているのだろう。こういう人に何を言っても無駄なのだとも言えるし、長尾さんを執拗に攻撃するのも残酷ということになる。

日本人はこのネイティブ文化を意識できないのから変えることができない。そこで変化が起きないように内輪揉めを繰り返している。しかしこの内輪揉めにはそれ自体が楽しい。自分のネイティブ文化が優位であると考えて優越感に浸るのも楽しいし、何かに抗議しているのも楽しい。でなければTwitterがこれほど盛り上がるはずはない。実は野党の人たちも永遠の政界再編を楽しんでいるかもしれない。

ではなぜ我々は内輪揉めに耽溺できるのか。ここからが問題である。それは大した問題が起きないからだ。これは野党を見ていればよくわかる。問題は山積しているのだが、それはなかったことにしてみんなで大騒ぎしている。

さてこの裏返しが中国やアメリカは北朝鮮と共存できる理由になる。日本人にとって北朝鮮の物語は桃太郎である。つまり悪い鬼である北朝鮮が成敗され「めでたしめでたし」となる。桃太郎の物語のあとについて考える人はいないが村人は「仲よく暮らしましたとさ」となるはずだ。しかし、中国やアメリカが北朝鮮を受け入れられるのはそれを不確定要素として組み込むからだろう。彼らは永遠の闘争を生きていることになる。

野党再編でとりあえずの妥協ができないのは野党の人たちが桃太郎を念頭に置いているからだろう。つまり、新しい野党ができたときには自分の価値観が優位になり「いつまでも幸せに楽しく暮らしましとさ」となるはずなのである。

安倍首相も「日米同盟はもう出来上がった」と考えているからこそ愛想笑いを浮かべていることになる。だが、アメリカ人は「もう出来上がった関係」などというものは考えない。だから違いが生まれるということになる。例えば、トランプ大統領から「ディール」をとったら何が残るか。もしかしたら退屈で死んでしまうかもしれない。日本人が内輪揉めに耽溺できるのと、北朝鮮問題に対処できないという問題はつまりコインの裏表になっているのではないだろうか。

もし、日本に対応する問題がないなら、野党の審議拒否はニュートラルな価値しか持たない。しかし、日本が変化に富んだ状況に対応して行かなければならないとしたら、それは悪いことだ。さらに、その原因を作っているのは野党だけではないが、かといって誰かが怠けているからというわけではない。変化に対応するためのスキルに欠けている。

さらにいえば、世界と日本では安定に関する考え方が全く違っているということがわかる。

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