福田事務次官のセクハラ問題を引き続き考えている。当初、この問題が新しいと思ったのはこれが村落性を越えた久々の政治議論だったである。民主党政権の失敗から政治に参画しても得られるものは少ないと考えた日本人は、自分たちが所属している村落に引きこもってしまった。これが安倍政権の安定を支えると同時に日本を停滞させてきた。変わらないことで結果的に世界的な潮流から落ちこぼれることになってしまった。年初から村落性についての議論をしてきたのはこのためだった。
政治を語るに当たってはイデオロギについて考えるのが一般的だが、日本では個人の意見が軽視されるのでイデオロギが政治に果たす役割はきわめて限定的である。さらにイデオロギは単に党派対立の道具としてしか見られていないようである。政権選択可能な二大政党制という現実的な仕組みが作れなかったことで日本人は、であれば自分たちの利得を増やすこと以外に関心を持つことをやめようと思ってしまったのではないかと思う。
しかしながら今回の問題は男性社会が女性を差別しているという女性であればだれでも経験したことがある実感と結びついたために大問題になった。これだけでは声を上げる人は少なかっただろうか、いくつかの背景があり問題が表面化した。
第一に安倍政権ではさまざまなごまかしが横行しており、安倍政権は隠蔽集団だという評価が定まっていた。個人的な付き合いから情報を引き出す記者もいたようだが、視点が面白いとか、独自の情報網を持っているという理由で情報交換ができた記者がいたということのようだ。女性は最初からこの土俵に上がることはできず二級市民か接待要員としてしか認められてこなかった。つまり、女性ジャーナリストへのセクハラは今に始まったことではないようだが、この時期に乗ったために大きな問題になったのだ。
次にMeToo運動がある。この運動はアメリカで始まったが日本では盛り上がらなかった。しかし相場観は作られてゆき「アメリカで認められているのに日本では認められないのは不当だ」というような意識ができてきた。よく考えてみればアメリカで認められようが日本独自の問題であろうが主張すべき権利は主張すべきなのだが、やはり日本人は西洋に追いつきたいという気持ちが強いようだ。逆に世界的なスタンダードですよといわれると逆らえないような雰囲気も生まれる。
さらに一度声をあげてみると男性社会からの大きな反発に遭遇した。今までは声を出さなかったので、男性がこれほどまで醜悪に既得権にしがみついているとは思わなかった人も多いかもしれない。麻生財務大臣の身勝手な言い分を聞いていると追求したい気持ちが強く湧き上がってくる。
このような特殊な事情があり運動が表面化した。逆にこうした盛り上がりがなければ「女性が自分の権利を主張する」ことができなかったということを意味している。
不当に扱われたくないという気持ちがイデオロギを越えて広がったのは良いことである。だが、この運動は収束してしまうのではないかと思う。それは、この運動の起源が外来のMeToo運動に根ざしており時流に乗っただけのものだからだ。
ではなぜそれがまずいのか。単に時流に乗ったのが軽薄だったからなのだろうか。この問題がどこに向かうかによって何がまずいのかは違ってくる。すでにジャーナリストの江川紹子さんが次のように言っている。江川さんのいうように政治家へのパフォーマンスに消費されて終わりになるかもしれない。だが、それでも構わないのなら時流に乗っただけでも構わなう。
事態発覚後の対応や次官の任命責任などについての追及はあるにしても、今回の問題は基本的に取材先でのセクハラから記者を守る、ひいては多くの働く人の安全という課題。民主党政権時代にも、おそらくあった問題。パフォーマンスで与野党対決を演出する課題ではない。
— Shoko Egawa (@amneris84) 2018年4月20日
ではなぜ利用されて終わりになる可能性があるのだろうか。それは権利の主張がビジョンを伴わないからである。男性並みになりたいといってもいくつかのアプローチがある。
旧来のフェミニストは男性社会そのものが崩壊すべきだという主張を展開してきた。これまでのジェンダーの専門家が女性の支持を得られなかったのは、女性の参画ではなく男性社会の破壊を目指す強硬な姿勢があったからではないかと思われる。フェミニストというと「男勝り」の女性というイメージがある。かつて論壇で活躍していた田島陽子さんのような存在だ。確かに派手な言動は見ていて気持ちがよいが「ああはなりたくない」と思っていた人も多いかもしれない。だが、どんなに過激に聞こえる主張でも、なぜ支持されなかったのかを含めて一応は検討する必要があるだろう。
次のアプローチはバリバリと働けるようになるというものである。しかしそのためにはワークライフバランスを無視した「男性的な」働き方が求められる。母親になっても0歳から子供を預けて働くというやり方である。それは当然母親という<一級下の>作業を誰か別の女性に押し付けるということを意味している。これは名誉男性コースなのだが、そレも含めて検討してみるべきだろう。
最後のアプローチは、男性社会が女性に合わせてスローダウンするというやり方だ。ではそれはどういう意味なのだろうか。卑近な例で言うとお弁当がある。北欧の国のお弁当はとてもシンプルで日本人から見るとこれはとても受け入れられそうにない。例えばノルウェーの弁当はマートパッケと呼ばれるそうだ。ノルウェーの弁当が質素なのは働くお母さんが料理に時間をかけられないからだろう。中華圏でも母親が料理をしないので屋台などで軽く済ませるのが当たり前だとされている。だが、このやり方はむしろ女性の方が戸惑いを覚えるかもしれない。
もちろん、女性が男性に対して女性も男性並みに扱えと主張することは問題はないし、男性側が職業慣行を変えるのは良いことだ。今回の例では分かったのは男性が作った職業慣行は個人的な関係を前提にしており、このことが却って国民の権利を侵害しているということだった。だがそれを明確にするためにはある程度の理論化が必要であり、当事者間で合意する必要がある。
時流に乗った動きがまずいのはこの合意形成ができないからである。
しかしながらこの運動が全く無意味なものになるとも思えない。日本は民主主義先進国の割には女性の地位が低い。そのことは政治的な潜在需要が極めて大きいということである。すでに野党はこれを期に支持率を上げようと考えているようだし、自民党では野田総務大臣がこれに気がついたようだ。
放送を主管する大臣が直接記者にヒアリングするというのは放送の中立性という観点からは有ってはならないことだのだが、日本人はそのような「チマチマしたこと」には関心を寄せないだろう。時代遅れの印象が突いてしまった麻生大臣はテレビ朝日に話を聞くといっているがこれは恫喝に受け止められかねない。そこでニューリーダーである野田総務大臣が女性ジャーナリストの守護者としてリーダー的地位を得れば総裁選に有利に働くのは間違いがない。
つまり男性政治家が放置してきたことで潜在的な需要ができつつあるということになる。政治は意外とそんなことで動くのかもしれない。