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文明の衝突と日本

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「文明の衝突」は、東西冷戦が終わりアメリカが唯一の覇権国家になった直後、1993年に提唱された概念だ。アメリカが超大国であることには変わりないが、それに敵対する可能性のある地域大国があり、地域には2番手の国があると考えた。イスラム圏のように地域大国がない世界もある。その中で東アジアは特異な地域だ。地域大国は中国なのだが、地域の2番手の国である日本は、中華圏を含めどの文明とも共通点がない独自の文明だとみなされている。
今回は2000年に出版された『文明の衝突と21世紀の日本 (集英社新書)』を読んだ。日本向けに書かれたダイジェスト版と言える。
このフレームワークは、アメリカ中心の視点で書かれている。「イスラム対キリスト教」という対立が念頭にある。アメリカは当然「西方キリスト教的世界」の中に位置づけられている。
この図式は当時とは大きく変わった。2012年の大統領選挙では、イスラム教徒を父親に持つ候補と、アメリカで生まれたキリスト教系の新興宗教を信奉する候補が対峙することになったが、今の所「文明の対立」とか「宗教の対立」だとは考えられていない。つまりアメリカは純粋に「西方キリスト教的」とまでは言えない。
また「超大国であるアメリカの本土」が直接イスラム世界から攻撃されるという事件も起きてはいなかった。
毎日の問題を見ていると、一つひとつの問題がとても大きな脅威に見える。また、別の問題は日本から遠く離れた所で起きており全く関係ないと感じられたりする。こうした大きなフレームワークの利点は、こうした混乱に満ちた世界を整理して眺めることができる(眺める事ができるということは、対策を立てることもできるということだ)という点だろう。
このフレームワークは、アメリカの内部から世界を眺めているのだが、実はアメリカが持っている「新世界的な」側面をあまり重要視していないように思える。それは旧世界の秩序から脱却して、新しい動きを作るための原動力になるという側面だ。その後「グローバリゼーション」が引き起こした様々な問題点を考えると、諸手を挙げて賛成するわけにも行かないのだが、それでも貢献も大きかったのではないかと思う。
同じ事が日本にも言える。日本を内側から見ると、自分たちの文化圏を過小評価してしまいがちになる。アメリカと中国に挟まれて、独自性が乏しく「物まねに過ぎない」というのが一般的な評価なのではないかと思う。ところが、世界的に見ると「日本はやはりどことも違う」というのが一般的な評価だ。ただし、海外に出かけた日本人は出先の文明に融合してしまうので、どの国ともつながりがなく「孤立している」というのもやはり一般的な見方である。
古くからの国の成り立ちを見てみると、日本はかつて東アジアの中で多分に「新世界的な」要素を持っていたらしい。だからこそ南中国や朝鮮半島から新しい機会を求めた人が押し寄せた。「文明の衝突」が前提にしている「西洋文明と非西洋文明は衝突するはずだ」から「新しい秩序を作り出せる文明が必要だ」という主張は、日本人から見るととても不思議に思える。日本ではこの2つの価値観は「なんとなく」折り合っているからだ。多分これはアメリカにも当てはまるのではないかと思う。非西洋系の移民たちは、なんとなく東洋的な価値観を受け継ぎながらも、西洋社会にとけ込んでいる。いわゆる「新世界人」的である。
ここで問題になる点はいくつかある。まず日本の指導者たちは日本の国が持っている「優位性」を資産だとは感じていない。さらにこうした資産を使って世界に貢献しようという気概はない。さらに目の前の問題を見て右往左往しており、もうすこし広い視野で物事をみようとはしない。
さらに、日本ではこうした「違ったものを折り合わせる」行為はあまりにも当たり前に行われていて、取り立てて他人に説明しようとするのが難しい。多分、日本流のやり方をすれば「とりあえず、二階に住んで、盗んで覚えろ」というような言い方になってしまうのではないかと思う。多分「黙っていれば相手に伝わる」という点が、周囲から理解されにくいという特性を生んでいるのではないかと思う。
最後に日本人は西洋文明に対して卑屈さを覚え、近隣の東洋文明に対しては尊大に振る舞う傾向がある。相手によって自分の価値までが変わってしまうわけで、冷静に自分たちの資産を評価する妨げになっているのではないかと思う。