日本の南には台湾があり、そこをさらに下って行くとフィリピンに行き着く。南方から入ってきたとされる人たちはこの道筋をなんらかの手段で北上したと考えられるのだが、台湾からこのルートを南下した人たちもいる。
九州と同じくらいの面積を持つ台湾には「原住民」と呼ばれる少数民族が40万人ほど住んでいて、同じ系統の言葉を話す。同じ系統とはいっても、谷ごとにお互いに意思疎通ができない程度の違いがある。この言語の豊富さから、彼らは「充分に長い間」この島に住んでいたことがわかるのだという。
彼らと同じ系統の言語(オーストロネシア語)を話す人たちは、マダガスカル島からハワイやニュージーランドまで広範囲に住んでいる。インド・ヨーロッパ語族と同じような分岐型の人たちだ。今では彼らの故地が台湾島あたりだと考えられている。台湾からフィリピンに島伝いに渡り、そこから各地に拡散したのだろう。
小さな地域に多彩な言語を持った「民族」が暮らしているのは、1億人以上が同じ言語を話す日本人からみると特異に言える。さらに同じような言語を話す人たちが「拡散していった」ことから見ると、自分たちの言語を長期間保存していることとつじつまが合わない。
どうやらこの人たちは、農地が少なくなると徒党を組んで他の島に移って行く習慣があったのではないかと思われる。しかし一方で狭い地域では、お互いに干渉を最低限にとどめ独自性を保っていたらしい。こうした状態を「平衡」と呼ぶ。できるだけ自分たちの習慣やアイデンティティを守るために同じ民族間で固まって住んでいて、お互いの言語が理解不能になるまで分化したのではないかと考えると双方を無理なく説明できるからだ。
台湾では「異民族間」で結婚が行われている。また、身分社会であり「貴族」と「平民」層があったようだ。つまり、狩猟生活をしていたからといって「平等でヒエラルキーのない」社会があったわけではなさそうだ。
一方で「税金や中央政府」というような概念は発達しなかった。民族というのはかなり人工的な概念だ。日本人が同じ言語を話すからといって人種的に均一とは言えないのは「我々が日本民族である」という認識があとから作られたからだ。こうした概念があるのは、日本人が「国家」という発明品のある社会に住んでいるからだ。部族的な社会では、人種的に大きな差がなくても、別言語を話す民族だという認識が生まれる。
どうして「中央政府」という概念が発明されたのかは良くわからない。「全く外見が異なり、何をやるかまったく見当も付かない他者」が存在しないところでは、小さな違いを乗り越えて「自分たちは同一である」という意識は生まれにくいのかもしれない。従って、自衛のために中央集権的な政府を作り、他者に立ち向かおうという意識も生まれにくいのだろう。
日本列島には、朝鮮半島や中国大陸から入り込んだ人たちが「中央集権的な」国家を作り上げるのだが、台湾ではオランダ人が来るまで「政府」がなかった。オランダ人が台湾を統治し、その後オランダ人が連れてきた中国系の人たちに乗っ取られる。
オーストロネシア系の人たちは台湾ではオランダ、中国、日本に支配されるのだが、フィリピンやマレーシアではネグリトと呼ばれる「原住民」を山地に追いやった。その後それぞれヨーロッパの支配を経て徐々に独立を果たし「多民族国家」を形成した。インドネシアでは「インドネシア語」が発明されたりしている。
現在の台湾には「古くからいる中国人(本省人)」と「新しく入ってきた中国人(外省人)」の間に意識の違いと対立がある。この対立が始まってから70年弱が経過した。外省人は、中国大陸の政情に強い関心を持っている。わずかな違いの方が重要に感じられるのだろう。彼らは別の国を作って別々に台湾を統治しているわけではなく、同じ国の中で政権交代や世代交代によって対立している。つまり渡来系といっても一様ではないわけだ。
例えば、「台湾人」という言い方があるが、これは外省人にとっては受け入れがたい概念だ。自主独立ではなく、大陸からの切り離しを意味するからだ。また大陸側の政府からみても「中国固有の領土である台湾」が切り離されるというのは政治的には受け入れがたい事実だろう。清(うるさいことを言えばツングース系の政権なのだが)が台湾を自国に編入したのは1683年だし、共産党は台湾を統治したことは一度もない。
日本列島に渡来人が入って来た時、列島がどのような状況だったのかはよく分からない。
「既に均質な先住民がいた」ことになっているのだが、台湾の状況を見ると、彼らが「同一言語を話していた」かどうかはわからない。台湾原住民と同じように狭いアイデンティティを保持しつつ小集団で暮らしていたかもしれないし、お互いに緊密な交流があったかもしれない。つまり、日本語がいつ成立したのかはよく分からない。
渡来人の側には「民族意識」があったかもしれない。一様ではないとはいえ、少なくとも「国」の概念を持ち込んだ人たちは、母国とある程度のつながりを感じていたかもしれない。彼らが一波ではないとしたら、母国のアイデンティティと対立構造を持ち込んだまま、小競り合いを繰り返しつつ、徐々に母国への関心を失ってしまったのではないかと考えられる。特に、大陸側に日本語と同系統の言語がないことは説明が難しい。大陸側の言語が消えてしまったのか、あるいは日本で溶けてなくなってしまったのか、よく分からない。
その後の史料を見ると、日本は大陸から「精神的に独立」し、その後日本史といえば列島内部で起きた出来事を指すようになる。