TBSはこの数日間「公明党の幹部と二階さん・岸田さんがあったらしい」という情報をほのめかし始めた。後継の模索が始まったと言いたいらしい。表向きは政策調整らしいが裏では次期首相の剪定が始まったのだと言いたいようだ。毎日新聞は各派閥が安倍政権に距離を置き始めたと伝えている。
面白いのが読売新聞だ。愛媛県の担当者が「首相案件」発言をしたということを「独自に」確認した。日本テレビでは農水省でも面会記録が見つかったというニュースを伝えている。産経新聞は安倍首相に近い新聞だが、読売新聞は政権政党に近い媒体だったということになる。多分風を読んで乗り換えたのではないだろうか。政府は記録はあったようだが事実稼働かはわからないというわけのわからない返答をしているらしい。
よく「風向きが変わる」などというのだが、日本ではかなり具体的な動きとなって現れる。これは風が気のせいではなく実際の行動であるということを意味している。そして「誰が風向きを変えているわけではない」というのも重要だ。風はなんとなく「みんなで」変える。ある意味で「民主的な」動きだともいえる。
これを「契約軽視による民主主義の形骸化」だと騒ぐ人がいても良さそうなものだが日本人でこれを嫌う人はまずいない。民主主義を取り戻せと言っている野党支持者もこれい怒りを感じたりはしない。もともと安倍政権がなくなればよいのだし、こうした微妙な動きをキャッチして騒ぐこともないだろう。さらに民主主義が何なのかということを左翼の人たちは理解していない。彼らにとってはみんなの意見が通るのが民主主義なのだから、ふわっと政権が変わってもそれはそれで良いわけである。だから政権が切り替わってしまえば彼らはまた「戦争はいけない」とか「放射能は危険だ」などというもとの運動に戻るだろう。
契約と調整という視点で見ると、ドイツの動きは全く別になるようだ。まず選挙の約束がありこの段階では政権を取るために多数派が必要などということは考えない。結果が出たら政権を模索する動きが始まる。つまり、契約と調整が日本とは全く真逆になっている。しかも連立自体も契約になっていて今回の契約には「2年で見直す」という条項が入っているのだそうだ。日本は憲法をドイツから学び戦後も敗戦国としての反省が基礎にある。似たような環境の両国が全く逆の動きをするのは面白い。支配する文化コードが違っているからなのではないかと思う。
いずれにせよ日本では契約はそれほど重要視されない。なぜ重要視されないのかはわからないのだが、安倍政権はその理由の一つを教えてくれたように思える。安倍政権は「自分は国民から支持されているのだから自分のリーダーシップのもとに力強く政策を推進する」と言っていた。これは明らかに契約に基づく概念である。しかし、何を契約したかということは曖昧であり、国民の側も契約したのだから安倍政権に一定期間全てを委ねるというようなことは考えない。さらに、いったん契約が終了しても官僚機構は「国民との契約が切り替わったのだ」とは考えない。選挙は「それ」であり、官僚がやっていることには霞ヶ関の経緯というものがある。つまりそれとこれとは違うと考えてしまう。
契約が曖昧な概念である一方で「契約に基づいて勝ったのだから」と言われると内部での調整機能は働きにくくなる。諸派閥議員の中には地元でいろいろ言われるのはまずいなあと思いつつも文句を言えなかった人たちもいるはずだし、官僚も文書をごまかしたり知っていることを記憶にないといって強引な政策にお付き合いをせざるをえなくなった。こうしたことが起こるのは契約の一方の当事者である国民がいつまでたっても「約束と違う」と叫び出さないからだ。こうした背景があり安倍政権はありもしない契約を後ろ盾にして暴走してガン化した。
この「契約」がさらに過激なのが韓国である。韓国は日本と文化コードが似ている。ただし内部で調整するという機能がない。民族自治の経験が少ないので派閥の多様性が日本より少ないからではないだろうか。血縁や地縁をもとにした集団が結束しやすいこともあり、政権ができては汚職で逮捕されるという歴史が定着しつつある。契約のもとでは「何をやってもいい」けれども「契約が変わると殺されかねない」という国になっている。
韓国との比較でいうと、契約中心の文化がないところを村落的な調整で乗り切っているのが日本ということになる。
ドイツ的な契約社会が何によって支えられているのかはよくわからない。直感的には全ての人たちが説得されなくても「契約ファースト」という価値観を受け入れているからのように思える。民主主義を推進しようと考えるなら、初等教育のレベルで契約ファーストの価値観を叩き込む必要があるということになるが、日本の教員はネイティブでこの文化言語を話せないので、どうしても日本的な訛りが残ってしまうはずである。それは契約よりも文脈による意思決定修正権の留保の方が重要だという価値観だ。
国民の側から見ると「国を変える」「自民党が自ら自分たちの価値観をぶっ壊す」「やはり自民党ではダメで政権を交代するしかない」「下手に変えようしたら大変なことになったから俺たちに任せてほしい」という契約が全て嘘だったということになった。次にやってくる価値観は「とにかく穏便に何もしない」というものになるのだろう。その意味では国家の体系をすっきりとしたものにするという石破さんよりも、なんとなく穏健な岸田さんの方が向いていると言えなくもない。
つまり契約中心の社会を作って社会を変革することに失敗したわけである。であれば、小学校の早い時期から議事録を取らせて「どれを公式記録として残し、何をオフレコにするのか考えろ」という調整型の教育を行うべきなのかもしれない。そして「何か基準がほしい」と生徒が言ってきたら「バカ、空気を読めなくてどうする」と叱責するのである。