ざっくり解説 時々深掘り

民主主義とは多数決のことなのか

カテゴリー:

Quoraで面白い質問を見つけた。民主主義は51%の人が49%の人を抑圧する可能性のある制度であるが、その欠点をどう克服すべきかというのである。とても違和感を持った。

考えてみれば、高度経済成長期からバブル期にかけてこのような疑問を持つ人はあまりいなかった。まず民主主義の過程の一部に不具合があるのだろうかと考えたのだが、しばらく考えているうちに「実は誰も満足していないのではないか」と思った。実は民主主義が機能していないからこそ多数決という意見が出てくるのかもしれないと思ったのだ。

かつて、社会党が代表する野党勢力はだいたい1/3程度を占めていた。だが彼らは「社会から排除されている」というような気持ちではなかったはずだ。それほど必死な気持ちで野党を応援していたのではなく単に「多数派に組み込まれるのはかっこ悪い」くらいの気持ちで野党に入れていた人も多かったからだ。もちろん社会に不満を持つ人たちもいた。例えば、首都圏の大学には「天皇制は絶対に反対だ」などという人たちもいて、角棒を持ってデモに参加したりもしていた。しかし、彼らは49%のマイノリティだとは思っておらず、もっと少数派であると思っていたはずである。

Quoraでは交通ルールに例えて民主主義についての説明を試みた。車が自由にどこかに行くためのルールを管理するのが民主主義であり、どこに行くのかを決めるのは民主主義ではないと説明したのだ。つまり、赤信号で止まるというのは民主主義だが、山に行くのはいいが海に行ってはいけないというのが民主主義ではないということになる。例えば商法は商売上のルールを決めているのだが、商売で何を儲けるべきかということは書いていない。どこに行くか(つまり何を商売にするのか)はそれぞれが決めるのである。

だが、実際にはこの「民主主義は自由を保証するためのルール」という言い方はきれいごとにしか聞こえないかもしれないなとも思った。なんとなく、一部の人たちが全てを決めていて自分たちの言い分は通らないような感覚を持つことが多いからだ。さらに国会ではいつも議席の多数を持っている自民党の人たちが全ての物事を決めており、数で劣る野党の言い分はほとんど通らないように見える。多分「51%が……」という質問はこうした状況を念頭に置いているものと思われる。

そこで色々と考えたところ、いくつかのポイントを思いついた。

第一のポイントはすでにあげたように「政府が行き先まで決めている」というものである。つまり、法律が及ぶ範囲が間違っているのである。つまり、民主主義が人々の行動まで支配ようとしているか、ある種の行動を不当に抑制している可能性がある。もともと日本には近代化して西洋に支配されない国を作るという目標があり戦後まで続いた。だから国が行動規範までのを決めているという可能性があるということになる。実際には省庁が「指導」という形で企業の行動に口を出していることが多い。

次のポイントは日本人の妥協ができないという特質だ。このブログでは「村落」と呼んでいる。最終的にすり合わせをするのが民主主義だとしたら、擦り合せる文化がないかやり方がわからないという可能性である。与野党が妥協できないという稚拙さばかりが目につくが、考えてみると学校でも習わない。学校では、先生の言われた通りに行動するか行動規範が最初から決まっている場合がほとんどである。つまり日本人は正解のない状態に慣れていないので、いろいろな意見を聞きながら、当座の正解を決めることができない。生徒はいつもルールに従わされるだけの存在であり、自由というのは「先生の目を盗んで校則を破る」ことだけになる。これが「従わされている」という心理状態を生むのだろう。

しかしながら、もっと考えを進めて行くと面白い可能性に気がついた。つまり自分たちがマイノリティだと感じている人たちが本当にマイノリティなのかという問題である。例えば自民党の支持者は30%程度程度しかないという話を聞いたことがある。少数派にすぎない彼らは、小選挙区制では支持政党のないマジョリティよりも政治的影響力が強い。公明党支持者などはもっと数が少ないがキャスティングボートを握っているので影響力が強い。つまり、実は特定のマイノリティが政治を支配しており、マジョリティが自分たちをマイノリティだと感じている可能性がある。つまりマジョリティの意見が集約されていないということだから、民主主義がそもそも機能していない可能性がある。

しかしながら、当の自民党支持者の人たちも全てを自分の思い通りに動かせているわけではない。あれほど強い影響力を持っているとされた日本会議ですら憲法改正の議論を前に進められていないし、経済団体が期待したようにはアメリカもいうことを聞いてくれないようだ。つまり、彼らも自分たちのことを多数派だと思っていない可能性がある。そもそも少数派だからお金をつかって政治に関与しようとするわけだが、影響力を行使できても結局は思い通りに政治が動かせているとは言えないのである。

最近の政局を見てもわかるように、もともと自民党を支持していた人たちのうちの一部が「やっぱり自民党はやめた」というと、砂山が崩れるように支持率が動く。40%の支持率が30%になると「じゃあ自分たちも支持をやめる」などといって離反してゆくわけである。すると、自民党の中にいる人たちの中にも「次の総裁は安倍さんではないのかもしれない」と動揺する人が現れる。政局は文字通り「流動的に」動いてゆく。最後に残った安倍派は実はほんの少数で、しかも社会常識から乖離した社会的スキルのない人ばかりだ。彼らのことを多数派と呼ぶことはできそうにもない。

ここからわかるのは実は誰も世の中を動かしていない可能性だ。そこでほとんど全ての人が「政治は自分の思い通りに動いていない」という不満を持つのではないだろうか。

民主主義は多数決にすぎず少数派の自分たちの意見はほとんど考慮されないと考える人たちについて考えたのだが、もしかしたらほとんど全ての人が自分たちは少数派にすぎないと考えていて、いたずらに強硬になってゆく可能性があるということになる。そこでなぜそんなことになったのだろうかと考えてみたのだが、さっぱり理由がわからなかった。

コンテンツのリクエストや誤字脱字の報告はこちらまで


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です