ざっくり解説 時々深掘り

官僚と政治家のどちらを信頼すべきなのか

カテゴリー:

QUORAに官僚と政治家のどちらを信頼すべきかという質問があった。背景はわからないのだが、今の森友学園の問題で野党が官邸を攻撃するのを見て憤っている人がいるのかななどと思った。「反日の民主党政権の残党が官僚とつるんで調子に乗っている」と考えている人も多いのかもしれない。この質問について考えるうちに「歴史を知るのは大切だな」と思った。と、同時に高度経済成長期というのはすでに一部の人々からみると歴史の範疇にあるのだなということを再認識させられた。

民主党政権時代と安倍政権時代を合わせると8年になる。この8年間しか知らない人たちが「安倍政権は政治が安定したいい時代だった」と考えるのはなんとなく想像ができる。確かに株価は上がったし、労働市場も売り手市場になりつつある。と同時に、民主党政権はそれ以前のポスト小泉3政権の負の印象を全て背負っている。就職氷河期が始まったのは自民党政権時代なのだが、なんとなく安倍自民党政権が終わらせたというように考えられているからである。一旦ついてしまった印象はなかなか消えないだろう。

そこでQUORAでは官僚と政治家の関係について改めて調べて回答した。

もともと「政治主導」という言葉はポジティブな意味で使われていた。毎日新聞の記事(購読にには登録が必要)は次のような識者の声が載っている。「説明のつかない取引」とは森友学園への土地の譲り渡しのことである。

「説明のつかない取引」の原因を考えると、1990年代から日本が進めてきた「政治主導」の強化が浮かぶ。日本は長く官僚主導で、その弊害も目立っていたため、細川護熙政権以降、「政治主導」を目指す改革が始まった。その流れは橋本龍太郎政権、第1次安倍政権、民主党政権などに引き継がれ、今の「安倍1強」とも呼ばれる「強すぎる官邸」ができあがった。

バブル経済が崩壊して政治が国民の期待に応えられなくなると、官僚の既得権益に厳しい目が向けられるようになった。そこで官僚機構を改革して行政の無駄を省くという提案がなされることになる。有名な塩川財務大臣の塩川財務相「母屋でおかゆ、離れですき焼き」という有名なフレーズが生まれたのは「構造改革」を訴えた第一次小泉内閣だったので、細川政権の提案は形を変えて自民党にも引き継がれることになった。

このトレンドは民主党政権でも続いた。安倍政権の発案だった内閣人事局構想は頓挫したものの、民主党政権は霞ヶ関に乗り込んで「2位じゃダメなんですか」というパフォーマンスを行い、八ッ場ダムを根回しなしに凍結したりした。どちらもマニフェストという国民の約束に書かれていたものだった。つまり、国民の期待が官僚機構にメスを入れたのだ。

しかし、これが官僚組織の「無駄」を排除することはできなかった。政治主導を行うためには政治が政策を作らなければならない。しかし、なぜか政治家はそれをやらなかった。単に政治指導を提唱し官僚をいじめただけだったのだ。日本には政策立案をするシンクタンクが生まれなかった。代わりに生まれたのがネトウヨ系団体と経済系の団体だ。ネトウヨ系は日本の不調の原因を精神性に求めるようになり、経済系の団体は特区を作って企業を優遇しろと主張した。どちらも誰かの犠牲が前提になっている。

結局、安倍政権は第一次内閣で提案していた人事局制度を採用し、表向きは人事権を掌握したかに見えた。安倍政権が5年も安定していたのはこの仕組みが表向きうまくいっていたからだろう。官邸に反抗するような官僚はいなくなり、国民の監視のもとに官僚組織が統制されたかに見えた。しかし、それでも本当の意味での政治主導は生まれなかった。誰かから極端なアイディアを募ってそれを官僚に押し付ける。都合の悪いデータを改竄し、足元にある不調は無視、そして出口戦略も考えないという無責任な体制ができただけだった。

我々が今見ているのは強すぎる統制の結果、官僚組織が歪められて混乱している現場である。だが、具体的にはどのような不具合が生じているのかはよくわからない。職員がもみ消された文書を自宅に保管しているというような異常事態になっていて、かなり深刻な状態が起きていたこともわかっているし、リークが頻発することからも現場で反抗的な人が増えているのは間違いがなさそうである。にもかかわらず与党は「これはまずい」などとは考えず支持率のことしか心配していないし、野党はパフォーマンスのことばかりを考えているようである。

内部で自浄作用が働かなくなると問題は破裂するまで膨らみ、やがて政権を混乱させる。

自衛隊の日報隠蔽問題や森友学園問題は官僚組織のSOSであり、身体で言えば病気のサインである。しかし現在は体が熱を出しているのに「まだ働けるはずだ」といって出勤してくる人に似ている。

「国民にかわって政治家が官僚を監視しますよ」という約束の結果が、なぜか国民から情報を隠蔽するという制度にかわって行った。理由は様々あるのだろうが、一つだけ言えるのは、官僚組織であろうが政治家であろうが、国民が常時監視していないと腐敗してしまうということである。

「選挙で選ばれた国民の代表なので国民にかわって政治プロセスを監視する」というロジックはよく使われる。しかしながら、実際には権限を持ってしまうと私物化が始まり、結果的に国民に知られないように情報を隠蔽しようと動いてしまう。だが、それは歴史的な経緯を思い返してみないとよくわからない。

いずれにせよ、官僚組織も官邸もどちらも信用してはいけないということになる。これは官僚組織が悪い人たちだとか、官邸が悪の巣窟だということを意味するのではない。だが、権力を握ったり権限を持った人たちはすべて腐敗する可能性があるのである。

コンテンツのリクエストや誤字脱字の報告はこちらまで


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です