森友学園問題の集中審議が始まった。
自民党側は政治家の総理の関与がなかったということを証明したい。そこで財務省が勝手にやったというストーリーを作って審議に望んでいた。多分、官邸が官僚の助けなしに作ったストーリーの杜撰さばかりが目についてしまうのだが、ポイントは別のところにあるのではないかと思う。
自民党のプロジェクトチームは多分疑心暗鬼におちっているのだろう。官僚信頼できないので、官僚にストーリーを作らせなかったのでそのストーリーがずさんなものになった。その上、財務省を恫喝して取り引きをもちかけようとして「財務省を取り潰すぞ」という脅しをかけたものと思われる。ネトウヨ議員たちは他人の心を動かして協力を引き出すことができないので、人事権を握って官僚を恫喝し続けたのだろうということがよくわかる。それでも信じられなくなると声を荒らげて人前で他人を恫喝するのである。こうしたやり方はTwitterでもよく見られる。
Twitterのネトウヨたちがすぐ反日認定したがるのと同じように、ネトウヨ議員の特徴は敵と味方を峻別したがる。そこで「太田理財局長は野田政権に近かったので安倍政権を破壊しようとしている」のではと訴えた。太田理財局長はここではじめて声を震わせて反論した。この和田政宗議員の質問はニュースを通じて拡散され自民党の支持率低下につながりそうである。
一方で財務省側はこの苦痛から早く逃れたいと思っているようだ。ただし、その苦痛は我々が考えているようなものでもないようである。彼らは目の前で辱められたり恫喝されることにはそれほどの苦痛を感じない。ただ、これまでマスコミや野党に対応するために、賽の河原に石を積むように意味を書き換えてきたという経緯があり、それを終わらせたいということだけを考えているようだった。
これが現れたのが福山哲郎議員への答弁だ。太田理財局長がなぜこれほど国会に情報を出したがらないのかがよくわからないのだが、検察当局がこの事件に「意味をつけようとしている」のに、それとは別に国会とマスコミが別の意味をつけることを嫌がっているのではないかと思う。作った意味を再構築する方が罪に問われるよりも彼らには苦痛なのだろうということになる。検察当局は意味を作ることができるのだが、朝日新聞と野党の間には明確な中心がない。そこで、情報がひびきあい予想もできない反応が返ってくることに疲れ切っているのではないだろうか。意味というのは官僚にとってそれほど重要なのである。
見ている方は「この事件で何があったのか知りたい」とか「誰が悪いのか突き止めたい」と思っているのだが、現場はそれぞれのストーリーを確定させたいということに夢中になっており、特に「事実をありのままに解明したい」などとは思っていないということだけはよくわかった。
いずれにせよ、複雑なストーリーは扱えない安倍首相はこの議論の枠外に追いやられていた。「産経ウェブに書いてあるから既知の事実である」というあらかじめ誰かが書いたストーリーを丸暗記した上で壊れたテープレコーダーのように話していたのだが、この産経ウェブが何を意味しているのか、なぜ産経ウェブに書いてあったら首相の関与がなくなるのかということはさっぱりわからなかった。安倍首相はもはや当事者としては議論に参加していないのだ。
それぞれの人たちがそれぞれの物語に夢中になっているのだが、太田理財局長は実は公益について重要な発言をしている。この公益という概念にはバグがあることは明らかで、太田さんはそのバグになんとなくは気がついていそうである。ただ、与野党議員ともに全く気がついていないようで、太田さんの指摘をスルーしていた。
太田さんが指摘していたのは「学校として認可される可能性があると公益化するので他事業とは同列に扱えなくなる」という問題だ。ここで想定外のことが起こる。それは森友学園がいつこの事業を公益化できるのかということが明確ではないということだ。首相は関与していそうだがそれでも学校としての認可が下りない。そこで財務省が書類提出のお手伝いをして「仕事を終わらせようとする」という異常な事態が起きていたことになる。つまり、他部門と調整しないと仕事が終わらないのに政治家の調整が期待できないという状態になっていたことになる。
「公共」という言葉は錦の御旗のようになっていて、今の法体系ではそれを排除することができないようだ。だからこそ、この錦の御旗に群がる人たちが出てきた。経営に行き詰った学校法人の経営者が右翼団体に近寄って首相との関与をほのめかしたり、首相に近い学校経営者が特区を作って地方公共団体から金を出させた上で学校を作るというようなことが起きているのである。
私たちは教育事業は聖職であり「立派な人たちがやるものだ」と思い込んでいる。学校から収益をあげることはできないが、社会を建設するのに大切な次世代の人たちを育てるからである。しかし、実際には補助金が注ぎ込まれており、これが利権化しつつある。
そもそも安倍昭恵さんがこの問題にふらふらと近づいて行ったのはそれが政治の枠外の「いいこと」という領域だったからだろう。つまり次世代の子供を育てるというのは儲け一辺倒ではできないことであり、社会貢献とボランティア精神に溢れた人を惹きつけるに十分な魅力がある。人生に意義を見出せない人にとって「私は社会に何かいいことをしているはず」という感覚には麻薬のような魅力がある。そこに「安倍首相をわかってあげている」という支援者が現れることで涙を流して感動した。
こうして錦の御旗は問題がある人たちを惹きつける。
これまでの政治家は土地で儲けていた。農地を転用して住宅地を作ったり高速道路を作るとその儲けの一部が政治家に転がり込むことになっていた。しかしバブルが崩壊してこのスキームが崩れるとこの枠組みでは儲けが得られなくなる。加えて、民主党政権時代には「コンクリートから人へ」というスローガンが叫ばれる。だから「人を育てる」という名目で国からお金を引き出すというような手口が発明されたのだろう。社会インフラも教育もどちらも「公共」という名目で「収益計算を度外視すべきだ」という発想があるので、社会インフラ建設の手法が教育に持ち込まれたのかもしれない。
しかし、教育を公のものとして扱うことそのものが教育の質を低下させている。政治家の関心が人を育てることではなく学校の建物を育てることに向かうのはその一例だ。例えば図書館を建設するのには熱心だが、インテリアとして読めない本を積み上げたり古本を並べたりするのに似ている。地域住民は文化的な雰囲気だけを味わいつつ雑誌と新聞をだけを読むのだ。
形骸化する図書館と同じように、社会の学問そのものへの関心は急速に薄れてきている。多くの大学の教員は研究ではなく資金集めに奔走しなければならないし、職員のポジションも有期雇用中心で安定しない。また勉強したい子供を社会が支援することはない。
日本が他のアジア諸国に先駆けて近代化できたのは庶民が教育に熱心だったからだ。だから社会的に「学校を作る」ということに対しては極めて寛容であり、庶民が学問を身につけても意味がないなどと思う人はほとんどいない。だが、その関心は形骸化しつつあるということになる。
社会が荒廃すると学校に儲け主義の人が群がる。すると教育が荒廃しそれが社会を荒廃させる。つまりこの現象は悪いスパイラルを形成しているのではないだろうか。自民党は憲法草案で「公益が人権に優先する」というような提案をしているのだが、実際には法律レベルでも公益が持っている弊害が現れているということが言えるようだ。憲法の提案は公益を使ってもっといい思いがしたいという堕落の現れであり、実際にその堕落が行政を混乱させているのである。
実は目の前でかなり重要な問題点が提示されているのだが、誰もそのことに気がつかない。今日以降も人々は自分たちのストーリーに夢中になり結果的に社会を荒廃させるのだろう。