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「民主主義を取り戻す」が危険な理由

今日は「民主主義を取り戻す」という言葉が危険なのではないかということを書く。これを「法治主義」や「立憲主義」に置き換えてもらっても構わないし、「憲法」に変えてもらっても構わない。

「〜を取り戻す」は正常でないものをあるべき状態に戻すということを意味する。ではそのあるべき姿とはどんな姿なのだろうか。

最近、ワードローブを入れ替えている。季節の変わり目ということもある。当初、ファッションについて勉強を始めた時には法則のようなものがあり、ルールを見つければオシャレになれるのだろうなどと考えていたのだが、それは正しくなかったようである。

ファッションは、枠組みを一旦崩して再構成という作業を繰り返す。ファッションには色や形などいろいろなルールがあるので一つのルールを全てに適用することができない。分類の注目ポイントが変わるので、時折入れ替えを行う必要があるのだ。

さらに変化するものがある。この間に17kg太って痩せたし、トレンドと呼ばれるものが変化する。細いパンツが主流だった時代が終わりワイドパンツ化が進んでいる。また、色を使ったコーディネートが駆逐されてシェイプ中心になったりもした。さらに駆逐されたはずの90年代風のアイテムがリバイバルして最新のファッションに取り入れられたりしている。

いったん「わかった」と思っても諸条件が変わってしまうので、この作業には終わりがない。逆に「わかった」と思ってしまうと、その時から知識の劣化が始まる。例えばバブルの時の知識でファッションが止まっているという人はたくさんいるだろう。

そこでこれまでの蓄積をためておいて、枠組みを変えたら再分類ができるようなシステムを作った。情報をクリアしてなんどでも再分類しなおすことができる。こうすることで「最初から全部やりなおし」をしなくてもすむ。

ファッションに正解はないのだが、知識は増えてゆく。また、正解がないにもかかわらずある程度の合意がありそれが変化するという状態にある。これは本来での意味の民主主語と似ている。

民主主義は変化する状態に対応するために正解を模索する作業である。だから民主主義のプロセス自体には正解もないし終わりがない。保守と革新というのは、単に速度をめぐる争いであり「世の中をよくして行こう」という方向性には違いはない。だから最終的には折り合いをつけることができるのである。

日本の保守と革新は折り合わない。日本の保守は現状を利用して自己の権威を高めようという試みに過ぎない。だから日本の伝統とアメリカへの追従という矛盾するコンセプトが混在しても誰も気にしないし安倍首相が嘘に嘘を重ねても気にしない。一方で革新と呼ばれている人たちは「自分たちの声が届いていない」と考えている人なので、彼らが体制に納得することは永遠にない。

日本のやり方はまず正解を作ってその正解を正当化するためにストーリーを作ってゆくというアプローチをとる。先に正解があるのでそれが折り合うことはありえない。

今回の森友問題の本質の一つは安倍政権の「決められる政治」が破綻したということである。このアプローチが破綻したのは、安倍政権が正解を掲げてそれを官僚が実行するという制度だったからだ。安倍政権が正確に状況を把握していればそれなりの制度になっただろう。しかし、彼らは偏った情報しか入れなかったので徐々に矛盾が出てきて表面化した。その矛盾をどうにかして「隠蔽」することで乗り切ってきたのだが、ついに乗り切れなくなった。その意味ではよく5年ももったものだと言える。

一方で野党側も正解を持っている。それは安倍政権が全て悪くて官僚組織は被害者であるという図式だ。だから野党は正解を押し付けてくる与党を超えることはできない。さらに、よく考えてみると野党側は政権時代に「官僚が全ての悪の根源だ」というようなことを言って官僚組織を叩いていた。「2位じゃダメなんですか」という人たちは、必死になって官僚が間違っている理由を探していた。マニフェストで「官僚が悪いのだという正解」を提示してしまい、そこから抜け出せなくなってしまったのである。

我々は「官僚組織を崩したところで新しい正解がおのずから立ち上ってくることはなかった」ということをもう一度思い出すべきだろう。ここから官邸だけを叩いても秩序が戻るわけではないし、官邸に全てを押し付けたところで政府が再び信頼されることはないということがわかる。この2つは両手のようなものである。パチンと音を立てたのは右手か左手かと聞いてみても答えはない。両手が合わさることで音が出るのである。

本来私たちはまず「正解を捨てて何が起こったのかを調査する」というアプローチをとるべきである。

ただ、今の政治に興味を持っている人たちが、正解を捨てて新しい枠組みを構築するために動き出すだろうかという疑問もあるう。極めて退屈で終わりのない作業だからだ。民主主義というのは、それ自身を組み立てることに何らかの面白さを見出さない限り、かなり面倒で退屈なプロセスなのではないかと思う。その意味では、私たちはこの人民裁判的なショーを通してしか民主主義を学ぶことができないのかもしれないとも思う。

いずれにせよ民主主義には正解はないのだから、民主主義を取り戻すことはできない。ここで正解があると錯誤してしまうと、それが実現しないことに落胆することになるだろうし、場合によっては安倍政権と同じような失敗を生むかもしれない。

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