宗教と憲法改正議論

接触できる情報が増えると却ってそれが私達を不安にする。地震の後の原発管理、中国からの大気汚染、さらに、北極の氷も溶けかけていることも我々を不安にさせる。
この「リスク」を解消する役割を期待されているのが政府だ。国民は政治には参加したがらないが、出力は期待する。
そもそも、心の安心・安全ということを考えた場合、政府の役割は限定的なはずだ。そもそも、私達は自分や家族がどこから来てどこに行くのかということを全て知っている訳ではない。これを解決する1つの手段は科学だ。西洋では「神の意志」を研究するところから科学が出発している。もう1つは、内面と対話したり、個人を越えた大きな枠組みについて考えるという行為だ。これは宗教そのものである。つまり、多くの社会では、政府ではなく宗教が「安心・安全」分野をカバーしている。
ところが日本では、個人が特定の宗教について語ることは、ほぼタブーだと見なされている。そもそも国民の多くが無宗教だとされていて知識が少ない。また、集団主義的な傾向があり、従順な人が多い社会なので、宗教の権威に飲み込まれやすい人が多いのも事実だろう。
個人は宗教に飲み込まれやすい。「地下鉄サリン事件」を通して、高学歴の人でも容易に洗脳されてしまうことが分かる。後から考えると寄せ集めにすぎない教義だったが、それでも多くの人が信じたのだった。また「イスラム過激派」という言葉と共に、宗教は怖いものだと考える人も多くいるだろう。
一方、既存宗教側も常に現世的な問題に悩まされている。お寺は家業になっている上に営業活動をするわけにもゆかない。一方で、家族を食べさせなければならないし、後継者問題もある。「非課税だから儲かっているのだろう」という見方もあるかもしれないが、必ずしもそういうお寺ばかりではないだろう。ここで「既存顧客」である檀家に依存しようとすると却って離反されてしまう。一般の人の中には「お寺はお金儲けなどするべきではないのに、いつもお布施の話ばかりしている」と考える人もいるに違いない。宗教と一般の人たちの距離は遠くなるばかりだ。
例えば、いくつもの仕事を掛け持ちし、最低時給で子どもを育てるという離婚した母親について考えてみよう。確かに、この人を救うことで「一生懸命子育てをしている『普通』の母親を差別していることになる」とか「子どもを持たない女性の税金をシングルマザーに使うのは不公平だ」という議論が生まれるだろう。これは、ある個人の選択を別の個人と比べて損得勘定をしている。だが、個人の損得勘定が行き過ぎると、さらに不安が広がるだろう。
「集団への依存」を宗教だと考えたとき、今一番「宗教化」を目指しているのは日本の政治家たちだと言えるだろう。やたらに家族の価値とか国家への忠誠などといった集団を示すキーワードが出てくる。
宗教教育には規範がつきものだが、倫理・道徳教育で国家主義的な思想を広めようと考えている人は多い。特に、老年期にさしかかり「人の人生を越えるもの」を考え始めた時に、こうした規範について考えるのは不自然なこととは言えない。
ところが、日本人には宗教の素養がないので、その時についつい自分が持っている規範やその人自身を「一段高いところ」に祭り上げようとしてしまう。個人の闘争を引き継いでいるので、支配の道具として考えてしまうのかもしれない。一般的には「個人の規範の神格化」だと考えられる。そして自分の持っている知識の範囲内で理論構築をする。だから、ついつい戦時体制への回帰のように見えるのだろう。
このように考えると、自民党が模索している憲法改正は「日本を再び戦争できるような国にする」という大それた目的の為に行われているわけではないかもしれない。つまり「個人がバラバラになってしまった」という認識の元に、自分が持っている知識だけを頼りに、日本の宗教化を目指しているのだ。
ここでは「宗教は悪いものではない」という議論をしているので、特に「宗教化を目指す」という動機が悪いものだと主張しているわけではない。出発点は悪くないかもしれないが、どこかで破綻するのではないかと思う。その場で誰かの上に立ったとしても、それは永続的なものではなく、安心・安全な感覚は得られないからだ。その上、そもそも国家が特定の思想(それを宗教と呼ぶかどうかは別にして)を国民に押し付けることができるのかという議論もあるだろう。

リスク社会を考える為の書籍ガイド-一般化するリスク

1969年の『ドラッカー名著集7 断絶の時代: 7』で、ドラッカーは、グローバル化が進展し政府の役割が限定的になる社会を予想した。情報化の進展もあり、変化は急激に進むだろうが、知的社会と知的労働者が対処するであろうというわけだ。
この頃には既に「複雑性」というものが問題になりかけており、情報の氾濫とが、複雑化の原因になるだろうということは分かっていた。
ドラッカーを読むのはビジネスエリートやマネージャと言った一握りのエリートたちだ。リスクはエリートだけが知っておけばよい知識だった。
1986年の『危険社会 – 新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)』はドイツの社会学者、ウルリッヒ・ベックの著作。複雑な社会が緊密に結びつき、リスクが蔓延した状態について考察している。
ベックのいうリストとは放射性物質汚染や化学物質汚染だ。こうしたリスク要因は目に見えないので、まずはリスクの正体を確定すべきだと考えている。また、その後に続く著作でも、複雑化したリスク社会は「合理的に」克服する事が可能だと考えているようだ。
ドラッカーとの一番の違いはリスクというものがすでに一部のビジネスエリートたちのものではなく、一般的な庶民が考える必要があるものに変わりつつあったという点だろう。リスクは目に見えないので漠然とした不安をもたらす。チェルノブイリで事故が起きたのが1986年だ。
この時点では金融やグローバル化した経済などが「リスク」になるような事態は想定されていない。その後、EUがヨーロッパを統合する。ベックにはEUの統合について考察した著作もある。
1997年の『イノベーションのジレンマ – 技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)』は、巨大企業が見過ごしがちな機会を企業家が捉え、やがて巨大企業を滅ぼす様子を観察した。ここから企業のイノベーション活動は組織が複雑化し、やがて行き詰まりを見せるという一般的な法則を導く。これを避けるためにはどうしたら良いのか、というのが主な研究テーマだ。組織を更新するための起業家や起業家精神のリーダーシップが重要視されている
2013年に出版された『Xイベント 複雑性の罠が世界を崩壊させる』は、発生の確率は低いものの、いったん起こると大きな影響力があるイベントを羅列した本。これだけを読むと煽動的な本に見える。
この本は複雑さを増した社会や組織がより単純な社会に接した時に起こる壊滅的な変化についての言及がある。本の中では、複雑になったアラブ圏の政府が、単純な社会構造を持つ民衆によって倒される例が引き合いに出されている。
Xイベントは事前に予測することができない。著者はこれをシミュレーションで予測できるようにしようとしているらしい。また、破壊は形状に組み入れられているので、個々人がどのように行動するのかということは、形状の変化とは何の関係もない。つまり、崩れる時には崩れるのであって、個人の合理的な意志で防ぐ事はできない。これが、ベックやドラッカーと全く異なる点である。
複雑性についての議論が多いので、予め複雑性について書いた著作を読んでおくのがよいかもしれない。バラバシの『新ネットワーク思考 – 世界のしくみを読み解く』や『バースト! 人間行動を支配するパターン』などがある。
自由主義経済は「神の見えざる手」という実際にはないかもしれない自動調整機構に頼っている。結びつきが緊密になり情報が氾濫すると、こうした調整機構がうまく働かなくなる。もしくは、複雑化しすぎたものが自壊して単純なものに立ち返る過程そのものが「見えざる手」なのではないかと思えてくる。
一部の専門家が取り扱えばよかったリスクという概念や用語も一般化し普通の人々がリスクについて考えなければならないというような状況になっている。

不安を軽減する為にはどうしたら良いか

リスクや不安には様々なものがある。実際起こっているものと将来不安は分けて考える必要がある。
すでに危険な状態に陥っているものを「カタストロフ」と呼ぶ。カタストロフには自力で対処可能なものとそうでないものがある。対処できない場合には逡巡せずに「火事だ!」と大声で助けを求めるべきだろう。
リスク分析は重要でかつ難しい。例えば、民主党政権は福島第一原子力発電所が爆発事故を起こした時「訴訟」が政権にとって大きなリスクになると考えたようだ。ところがこの事で初動が遅れ問題をこじらせた。「直ちに健康被害はない」などと繰り返したため、政権の問題解決能力に決定的な疑問符が付くことになり政権を失った。
彼らは「リスク」と「対処すべき問題」の切り分けを決定的に間違えてた。リスク対処に当たっては感情も大きな要素になるのだが、あの「直ちに…」という弁護士的な発言で、民主党は国民の痛みが分からない冷たい政党だと気がついた人も多かったのではないかと思う。もともとは天災由来なのだから「一緒に危機を乗り越えよう」と言い、情報開示していれば状況はかなり違ったかもしれない。
さて、対処すべき問題が分かったら、今度は問題にアプローチする為のモデルを明確にすべきである。それぞれのモデルには前提となる「合理的な前提」がある。モデルには前提があるのだから、限界もある。
複数モデルを不用意に混ぜると前提条件が不明瞭になる。
例えば、マネタリズムのモデルではデフレからの脱却が可能だが、そのあとに人々が経済参加する意欲を取戻すかどうかは分からない。マネタリズムのモデルには意欲というパラメータはなく、アクターはただ「合理的に行動することが期待されている」からだ。
自民党政権は「市場に意欲があることを前提とした自由主義的な政策」と「国家が最低限の暮らしを保証してくれるだろう」という社会主義的な政策を混合した政策モデルを持っているようだ。国民は常に不安を抱えている状態なので、新自由主義的な政策が効果を発揮しないうちに、社会主義的な政策を取って、効能を半減させるのではないかという点が懸念されている。危機の後に安心を提示してしまうと意欲が削がれる。効果が実感できない国民はさらに不安になり、消費を冷え込ませる。
リスク回避のためにもっとも扱いにくい要素は感情だ。不安により消費行動や起業意欲が抑制される場合があり、いくら「合理的な説明」を加えても思い通りに動いて貰えない場合がある。
解決崎を受け入れてもらうためには感情が非常に大きな要素になる。つまり、コミットメントや情熱といった非合理なものが、実は分析やソリューションそのものよりも重要な場合がある。

物事を単純化してもリスクは消え去らない

文明は困窮を充足に、危険を安全に置き換える試みだった。個人のがんばりが重要だということになり、自由主義が生まれた。自由主義では、所有の自由、チャンスの平等、安定的継続的な市場などが重要だと考えられている。危険を安全に変えるために作られたのが社会主義的なアプローチだった。できるだけ大きな枠組みでリスクを保障するという仕組みがとられた。
ところが、どんなにがんばっても危険(リスク)はなくせなかった。『危険社会 – 新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス)』は増大するリスクによって、結局世界は緊密につながらざるを得なくなり、逃げ場がなくなったと指摘している。ベックの指摘する危険には放射能汚染や化学物質に汚染される食品などがある。情報が取りやすくなると、却って不安を意識することが多くなり、。リスクの扱いに困るたびにリスクを保証する枠組みは大きくなった。『危険社会』が書かれたころには、緊密に連結された金融市場はまだ登場していなかった。つまり、リスクは増え続けている。
日本ではリスクを世代間で負担しようとして年金問題という時限爆弾を抱えることになった。ヨーロッパでは国家間が協力する事でリスクを管理しようとしたのだが、キプロスやギリシャなどの周辺国で問題が発生した。ベックは最近の著作で、ギリシャの命運をドイツの国民が決めることになったことで「民主主義そのものが危機に陥っている」と言っている。財政が破綻したギリシャの議会には自分たちの運命を決める権限がなく、実際に決定しているのはベルリンとブリュッセルだからだ。
民主主義はリスクを持て余しつつある。国家でさえリスクを持て余しているのだから、個人はほとんど「リスクに飲み込まれている」と言っても良い。リスクは国家の枠組みを越えつつある。
ドラッカーは『ドラッカー名著集7 断絶の時代』の中で、グローバルに結びついた経済、新しいイノベーションによって急速に変わる世界、脱中央集権した組織、知識中心主義などの概念を用いて未来を予想した。当時は新しかった理想はアメリカの覇権の元で実現するかに見えた。ところが最近ではこうした変化そのものが「リスク」だと捉えられているようにも見える。(『断絶の時代』についてのダイヤモンド社の提供する概要はこちら
アメリカ人は、こうした問題を解決する為に文化的な背景を無視して「ユニバーサルな」解決策を提示しようとした。『Crazy like US』という著作では鬱病についてのアメリカ流のアプローチが紹介されている。
日本はもともと憂いを文化に取り込むことで「鬱状態」に対処していた。ここに「心の風邪だから薬を飲もう」というソリューションが登場したことで、却って鬱病が病気になってしまった。鬱病の薬が有効性があるかという点には議論があるそうだ。
こうした流れは全て「グローバリゼーション」と呼ばれて、新自由主義と同じように嫌われている。これは「文化の違い」という複雑なものを単純化しようとした結果、却って状況を悪化させたのだと考えることもできる。

経済活動のリスクは誰が負担すべきか

大きな絵が欲しくなり、ウルリッヒ・ベックの小冊子をぱらぱらとめくった。「リスク社会」という概念について書いており、ベックは、ドイツ一国が強くなってしまった現状を分析しつつ、このままヨーロッパの理想を追求すべきだと言っている。その主張は、どことなく超然としている。
「ヨーロッパの若者に仕事がないこと」と「リスク社会」がどのように関係しているのかは分からないが、人々がリスクを回避しようとすればするほど社会への依存度が増すということはわかる。それは国家社会主義を越えて、EUのような領域社会主義へと至る。さらにグローバル社会主義のように緊密に絡み合った体制に移行するだろう。すると皮肉なことに、一人ひとりの役割が限定されてしまう。
現実は不愉快だが、構造は面白い。自由主義の人たちは、活力を得る為に「私利私欲」を肯定し有効に活用しようと考える。ところが、その行き過ぎたやり方はリスクを生み、個別のリスクは全体へと付け回しされる。すると、それは「グローバル社会主義」への望みを拡大させる。リスクが巨大で一カ国だけではとても賄いきれないからだ。すると、自由主義は押し込められ、やがて反動が増す。以下、この繰り返しではないか。
経済学者の池田信夫は原子力発電所は合理的な選択だと考えている。福島第一発電所のような事故は100年に1度しか起こらず、年あたりの事故処理コストは無視できるという。だから無視しても構わない、というのが議論の筋だ。
だが、サブプライムローンで分かったように、無視できるコストを切り刻んで処理をすると、結局計算外の大きなコストが発生する危険が生まれる。池田信夫は思想家というより、旧来の経営者たちのポジションを代弁しているだけなのだろう。つまり「儲けて何が悪い」という人たちだ。
原発の場合には、国家的あるいは国際的な保証のスキームを作らない限り受け入れは不可能だろう。つまり日常の儲けのために、誰がそうした保障システムのコストを負担するのかという問題が出てくる。
この負担について考えているエッセーを見つけた。内田樹の『五輪招致について』では東京五輪招致のような「私利私欲」と「アジアとの付き合い」や「福島事故の処理」などの問題を対置させて安倍政権を批判している。内田は「どれくらい儲かるかを計算する事=金儲け」を否定的に捉えている。儲けは一部の人たちの手に入り、一方で大衆はコストばかりを押し付けられるという前提があるのだろう。
だが、内田の議論『五輪招致について』は「新自由主義」と「ゆきすぎた社会主義」の対立を、「金儲け」と「文化的成熟」に置き換えているので分かりにくくなっている。
いずれにせよ、企業の儲けの受益者とリスク負担について考えない限り、この問題は収束しないだろう。