名護市長選挙は一種異様な選挙だった。Twitter上での関心が異常に高かったからだ。選挙に関する見方は分かれていて、接戦だという人と自民党系が不利だという人たちがいた。しかし、そのどちらも選挙に過剰な期待を寄せていたと思う。
結果は自民党系の勝利だった。NHKによる選挙結果は次の通りだった。接戦とは言えず民意は辺野古容認に傾いたと言って良いだろう。
▽渡具知武豊(無所属・新)当選、2万389票
▽稲嶺進(無所属・現)1万6931票
渡具知さんはすぐに東京に行くと言ってた。このことから名護市の置かれている困窮状態がわかる。沖縄も本土の他の地方と同じように困窮した状態に置かれている。そして原発自治体などのように不利益を引き受ける代わりに補助金を受け取ってしまうと、そこから抜け出せなくなってしまうのだろう。
どうやら安倍政権は選挙で勝ちさえすれば、その間は何をやっても良いと考えているようである。安倍政権が名護市で信任されたのだから安倍政権は何をやってもよいのだと言えば、それはやはり不当な言い分と言えるだろう。
しかし、実は裏側も同じことである。つまり、名護市で稲嶺さんが勝っていたとしても、それが安倍政権が間違ったという証明にはならないということだ。
この一週間「枝野さんに名護に入って欲しい」という運動があった。これは枝野さんを反安倍旗印にして、安倍政権が「民意に背いている」と証明できるような状態を作りたいと思っている人が多いからだろう。しかし、枝野さんは乗らなかった。これは賢明な判断だったと言える。
多くの皆さんから #枝野行け とツイートいただき、ご期待いただいていることに感謝します。残念ながら今日3日は、だいぶ前からお約束していた講演が午後に東京であり、私自身が名護に行くことは残念ながらできません。ご期待いただいている皆さんには、申し訳ありません。
— 枝野幸男 (@edanoyukio0531) 2018年2月3日
人々は自分が困窮した状態に置かれているということをなかなか認めたがらない。前回のコメント欄にあったように「我慢を強いて、最終的には自殺で決着」となるのではないかとも思える。だが、それ以来考えていたのは人々はそれほど慎ましくないのではないかということなのだ。
反安倍運動に参加している人は、何か言語化できない不安を抱えているか言語化はできるが表明できない不満をもっているのではないかと思う。個人の問題について語るのは「わがままだ」と思っているのかもしれないし、今の生活を壊したくないがために不満を表明しないのかもしれない。
一人ひとりが不満や不安を持つのは当たり前のことだし、それが当たり前のように共有される社会が作られるべきだ。しかし、その不満を他者にぶつけてしまっては、そういう社会は訪れない。逆に名護市の例でわかるように、過剰な騒ぎを作り出し、市政を困窮させ「孤立するか、忍従するか」という二者択一に追い込んでしまった可能性はないのだろうか。
幸いなことに選挙結果が出てから「実は名護市はかなり困窮した状態に置かれていたのだから、そこを理解すべきだ」という人たちが現れた。フリーのジャーナリストが多かったようだ。
もちろんこうした不毛な議論空間を作り出したのは安倍政権だ。「選挙に勝っている間はどんなデタラメをやっても良い」と思っており、国会でも当てこすりのように「民意をいただいた」と言っている。しかし、だからといってそれに乗って他者を苦しめたり追い詰めたりするようなことがあってはならない。
心あるならばそのことを自戒すべきなのではないだろうか。すでに基地の大半を受け入れている沖縄を二回蹂躙するようなことはあってはならないのだと思う。