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不安や課題が共有できない社会の象徴としての安倍晋三

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安倍首相と岸田文雄議員の議論を聞いて「ヤバいなあ」と思った。このヤバさは実際に質疑を聞いてみなければわからないと思う。ヤバいとは思うもののその意味がわからないという意味でも一種独特の体験だった。

岸田文雄議員は自民党の議員なので敵ではないが大物なので安倍さんにおもねる必要はない。そこで「アベノミクスで景気が浮揚したので人不足が顕在化してきている」というような意味のことを質問していた。とても当たり前な内容なので質問の内容はわかりやすかった。しかしながら、安倍首相は岸田さんのの指摘がよく理解できなかったようだ。そこでいつも通りのコピペ答弁をして「自分の政策には何も問題がない」とやった。いつものように意味不明の答弁だった。

マスコミはこれを政局に絡めて伝えた。例えばテレビ朝日は次のように書いている。

 「持続可能性」というキーワードで財政再建を重要視している岸田政調会長に対し、安倍総理は「経済再生なくして財政再建なし」との従来の主張を繰り返しました。一方、大臣として進めてきた外交、特に核廃絶問題を強調しましたが、進展は見られませんでした。

そもそも、安倍首相がコピペ答弁(マスコミ流にいうと「従来の主張を繰り返す」)をする理由は二つある。一つは、テレビを見ている有権者に「全ての政策がうまくいっており自民党に票を入れ続けても大丈夫だ」というためである。安倍首相におもねって地位が欲しい議員は、官僚が作った物語をなぞって安倍首相の政策を賞賛するような質問をする。すると答えと整合性が取れるというわけである。

一方で、コピペ答弁は「全ての政策はうまくいっていない」という野党の指摘を全否定するためにも使われる。安倍ミクスはうまくいっていないと指摘する民進党系の議員に「民主党政権時代と違って有効求人倍率が……」などというのである。これも官僚が想定したストーリー通りなのでうまく行く。Twitterで安倍批判をしている人たちも実はこの戦略に乗せられているので「本当のヤバさ」には気がつかない。

しかし、岸田さんはこの2つのパターンに当てはまらない。「アベノミクスがうまくいった」ということを前提にしつつ、人手不足が顕在化しているので今後どうするのだというような聞き方をした。すると、前提が崩れてコピペ答案が役に立たなくなる。物語が音を立てて崩れてしまうのである。

安倍首相は、立法府と行政府の違いが本当にわからなくなっているようだった。岸田さんを「政調会長」と呼び、いったんは「委員」にしたものの、また政調会長と言い直していた。さらに、何かの指摘に「党の方で議論をしてください」と総裁として指示していた。もちろん、岸田さんは政調会長なのだから、安倍さんに言われなくてもそれくらいはやるはずだ。

岸田さんがわざわざ予算委員会で指摘をした理由はわからないが、はっきりしない点がありそれを国会で確認したかったのか、テレビ向けに宣伝したかったからなのではないかと思う。つまり、なんらかの意図があるにもかかわらずそれが総裁には伝わらなかったのである。そこで別の質問では「もちろん、党でも議論しますが」と断りを入れていた。しかし、それでも安倍さんはよくわからなかったようで、再度ちぐはぐな答弁をしていた。

この行き違いについて考えた。これが即座に「政権の破綻」とか「日本の崩壊」につながることはないだろう。

行き違いの理由として一つ考えられるのは「政策」についての期待の違いだ。安倍首相・官邸は「選挙パッケージとしての政策」を期待している。全体の整合性は取れていなくても、特定のセグメントに訴えかけられるようなことをパッケージにして渡してもらえれば良いと考えているのだろう。一方、政党の側は解決すべき課題を意識する。問題は政策を統合しなければ実現はできないと考えているかもしれない。もちろん政調の裏には財界のようにソリューションを求めている人たちがいるはずである。

つまり、安倍首相はもはやソリューションを必要としている人たちとの間で課題や問題意識を共有することはできなくなっていると言える。政府はこれまで通りの政策を進めることはできるが、日本を変化する環境に対応させることができない。

安倍首相の頭の中にあるのはおじいちゃん(正確にはお母さん)の言いつけを守ることだけであり、そのためには時間が必要だ。だから政権維持だけが目標になっている。そこで選挙で勝ちさえすればあとは何をやっても構わないということになるわけである。だが、これは変化にさらされた日本にとっては緩やかな自殺である。

そもそも、このような問題解決を目標としないめちゃくちゃな政権が維持されているのはなぜか。それは日本が不安に直面できなくなってしまったからだろう。バブルが破綻した後、有権者たちは人口が減るうえに財政の赤字も拡大しており「今なんとかしないと大変なことになる」と考えるようになった。

最終的には政権交代が起こるのだが、次々と不確実なことが起きたせいで不安を募らせ「やっぱり変化するのは間違いだった」と感じるようになる。そこで出てきたのが安倍政権だ。安倍首相のメッセージは明快だ。「できもしないのに変化に対応できるといった」民主党は間違いであり自分に付いて来れば「これまで通りで大丈夫なのだ」と宣言したのである。この民主党の間違いは「デフレ」という一言に丸められている。一般の有権者はデフレを不景気の言い換えだと思っているはずである。

日本人は変化してこの状態を乗り越える必要があったが、そうはしなかった。民主党の間違いはこの文脈から考えると「わからなくてもいいからとにかく自分たちに任せて欲しい」とテレビで宣伝したことだろう。わからないのに任せるから不安になるのだ。さらに当人たちも実は政策パッケージの中身についてはわかっていなかったし、未だにわかっていない人たちも多い。

安倍首相と岸田政調会長のやりとりの問題点は「社会が課題の共有ができない」ことであると言い換えることができる。安倍首相を支えているのは「不安はあるけれど、どうしていいかわからない」という類の人たちであり、彼らが賛成派と反対派に分かれて不毛な争いをすることで、首相を支えているからだ。それぞれがそれぞれの立場から不安を叫び合っているのだが、誰も聞いていないということになる。それを支えられるのは「問題が理解できないがゆえに気にしない」人だけなのである。

岸田さんのような人が現れると「あれ、これはおかしいぞ」などと思うのだが、こうしたやりとりは政局にならないので取り上げられることはなく、社会は課題や問題を共有できないまま漂流し続けることになる。

これまでは課題が言語化できないのが問題だと考えていたのだが、実際に課題が抽出できたとしてもそれを共有できない状態が続いていることになる。漠然とした不安を持つ人が多いのはこのためなのではないだろうか。

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Comments

“不安や課題が共有できない社会の象徴としての安倍晋三” への2件のフィードバック

  1. 優先順位をつけることもできなくなっていますよね。課題がよく分からず、あったとしても個人や家族レベルで我慢が選択され、運よく課題として認識されてもそれぞれ叫んでいるだけで解決に向けて共有されない。
    究極的には自殺ということなんでしょうが、それは問題を解決できない自分が悪いという前提があり、さらにその前提に、問題は当事者で解決できるし、すべきものという傲慢な価値規範があります。先日このくだりで議論になったのは保守の人々ですが、案外この価値規範は多くの人が無意識に内在化させているものでしょう。日本だけじゃないと思いますが、とりわけ日本にある個人を隠蔽する文化と相まって深刻化していると思います。
    そうであるなら、問題が言語化されない、というのは、問題に係る意識が価値規範に連結されているため、問題として意識されない、ということになります。
    ただし、こんなの個人じゃ解決できない、なったらどうしようという不安だけは残る。
    その意味では、それを培った村落構造の意識が日本の民主主義の本質的な問題点になると思います。

    1. いつもコメントありがとうございます。
      唯一のソリューションが我慢と自殺であってはならないと思います。さらに付け加えると、純粋に我慢できる人も少なく別の方向に向かう場合もあります。これも問題なのではと考えています。