西部邁さんという思想家の方が亡くなったそうだ。入水自殺だったそうである。最初にこのニュースを聞いたときには「こんな寒い時期に多摩川に入るのは大変だろうな」と考えた。西部さんのことは昔「朝まで生テレビ!」で見たことがあるだけで、どのような思想の方なのかはわからないのだが、その報道について少し気になったことがあった。そしてしばらく考えているうちに、もしこれが保守本流の思想ならば(そうであるかはわからないのだが)日本はやがて滅びるだろうなと考えた。
どうやら報道を見る限り、西部さんの自殺については次のようなことが言えるらしい。
- 以前から自死について考えており、そのことを周囲に語ったり周囲に伝えてたりしていた。
- 自分が社会に貢献できるうちは生きていてもよいがそれができなくなったら死のうと思っていた。
- 自己決定ができない医療のあり方について全面的に否定をするものではないが、自分は自己決定したいと考えていた。つまり、自主性に重きを置いていた。
これについて、小林よしのりさんは「立派だ」と語っている。別の人は「言葉に殉じたと評価」している。学生の自殺には懐疑的な人が多いが、自己決定による自殺については「立派だ」と評価する人たちが少なからずいるようである。
亡くなった方に対して「正しい」とか「間違っている」などと指摘するつもりはないし、言える資格があるとも思えない。ただ、保守という人たちが抱える問題がわかる気がした。同時に、この違和感を共有できる人は少ないのだろうなあとも思った。
西部さんやそれに近い人たちはある前提を持っているようだ。つまり、人生は自己決定ができるということである。人は本来自由であるべきだとすると、これは否定しようがないように思える。これを共同体に当てはめれば国というのは自主独立の気風を持ち誰にも支配されるべきではないという彼らの主張と連続しており、思想面でも違和感はない。
ここから先が問題だ。この裏側には「人間の価値というものは計測可能で、少なくとも自分ではわかっている」という前提がある。つまり、人生の価値は「可知」なのである。
「そんなの当たり前じゃないか」という人が多いのかもしれないが、キリスト教的な伝統ではそうは考えない。キリスト教では生きているというのは「神様にゆるされているからである」と考える。人間は全知全能ではないから、自分たちの生きている意味や価値については知ることができない。ちょっと聞くと不便で従属的な考え方だ。
例えば、キリスト教(特にカトリック)では自殺は大罪だ。人間は自分の価値をすべて知ることはできないのだから、一生をかけてそれを追求するべきなのだという不可知性がその根拠になっている。その意味では西部さんたちの「自分の言葉に殉じる」というのはかなり不遜に聞こえてしまう。不遜という言い方が失礼ならとても「どきりとする」言い方である。つまり、どうしても、神に代わって自分で自分の価値を勝手に判断していると思えてしまうのだ。
西洋流の民主主義の裏には、人間は自分たちの価値を知りようがないという点では共通なのだからお互いに助け合って神様が考える理想に向かって生きてゆくべきだという前提がある。これを私たちはどこから来てどこに行くのかと表現したりする。最近では無神論の人も増えているのかもしれないが、神の代わりに「自然の摂理」というものを暗黙の了解としている人も多いのではないかと思う。
リベラルな助け合いや人権が擁護されるのはこうした背景があるからだし、資本主義の活動の根拠にも神様に与えられた資源をどうやって伸ばして行くべきかというテーマがある。自由というのは無制限の自由ではなく「神に与えられたテーマの自由な追求」というような意味合いになる。私もその自由を持って今を生きているが、同時に他の人もそうした自由を与えられているということになる。
一見「自分たちの運命を自分で完全に決められない」というのは不自由で従属的であるように思えるのだが、これを「自分たちが到達可能ではあるがまだ知らない領域」と捉えることで成長への余地に変えているというのがキリスト教的な考え方になるだろう。哲学や科学というものは、そうした自然の摂理(あるいは神の原理)に少しでも近づこうという活動であり、であるからできるだけそれに真摯でなければならないという意識につながる。
最近の日本の政治姿勢が人々の反感を買っているが否定しようがないのは、日本人がこれを理解できないからだ。安倍首相は自分は民衆から支持されている総理大臣であるから日本の法律を自由に変えたり解釈できると考えている。首相は「善いことは全て自分が知っている」と考えているだろう。なぜならば自分は国を動かす総理大臣だからである。しかし、自由が全知全能の人間の自己判断によると置いてしまえば、これはあながち否定はできない。これが自己決定論の恐ろしさなのだ。
もっとも「神様」と聞くと胡散臭く感じる人がいるかもしれない。日本人の中には宗教アレルギーを持つ人が多い。そこで「不可知さ」について別の見方をする人たちがいないか探してみよう。
例えば、今年は戌年だがこの漢字は作物を伐採する行為の記号である。つまり物事の完成期にあたる。次の亥年は種の形であり、子年は芽が出るという意味になっている。人間がコントロールできるのは芽が出てから採集するまでの段階であり種の中で何が行われていつ芽吹くのかということは知りようがない。これが循環的に繰り返すと考えるのが中国式の世界観だ。
この不可知さは決して不自由さや人間の限界を表すわけではなく、実は創造性の源になっているとう考えは古くからあり、洋の東西を問わず普遍的なものであると言える。日本の保守思想家の中には中国式の世界観に詳しい人たちがいた。例えば、戦前から戦後までの首相に影響を与えた陽明学者の安岡正篤などがその代表格だ。安岡と最後に結婚したのが細木数子で、細木はのちに運命学を利用して人々の不安を煽りテレビスターになった。
西部さんの論を取ると人間は自分の価値を自己判断で決定できるということになる。完全な自由を獲得したかに見えるのだが、同時に成長の余地が全く残されていないということをも意味する。だが自己決定と自由にとらわれている人たちはそのことに気がつくことができない。ゆえに、これを保守だと仮定してそれを突き詰めてゆくということは、成長を殺してしまうということにつながってしまうのである。
「創造性の破壊力」と「自己決定性」について考えているときに思い浮かんだのが三島由紀夫についてだ。三島は病弱な学生時代を過ごしたが内面にかなり破壊的な創造性を持っていたのだろう。それを病的なまでにコントロールしながら周囲を感動させる文学作品をいくつも作った。しかしながら、その創造性はどういうわけか枯渇してしまう。そこで三島は体を鍛えてコントロールすることに興味を持ち、軍隊のような統制の取れた集団に憧れを持つようになる。実際に彼が作ったのはおもちゃの兵隊のようなものであり、その制服もいまでいうコスプレのようなものであるということは本人も自覚していたようだ。だがこの活動はやがてエスカレートし、周囲を巻き込んだ市ヶ谷自衛隊の自決騒ぎに結びついてゆく。彼にとっては完璧な自己決定の形に思えたのかもしれないのだが、周囲はこれを単なる破滅だと感じたのではないだろうか。
三島の件で重要に思えるのは、彼が持っていた創造性の源というのが「なんだかわけがわからない」ものだったということである。あまりにも破滅的でどこに向かうかもわからないのだが、たまたま最初は文学に興味が向いたので周囲から「役に立つ」と評価され、同じ情熱が保守思想に結びつくと狂気を孕んだ自己決定につながった。また、彼は周囲を説得できず残された選択肢は自分を破壊することだけだったということも言えるだろう。
保守思想が日本を滅ぼすとすれば、それが「なんだかわからないもやもやしたもの」を排除してしまうからではないかと思う。三島の例を考え合わせると、協力もせず全てをコントロールできるとしたらそれは厳密な意味では自己破壊しかないのかもしれないと言える。一方で中国のような出方のわからないものとなんとか折り合わせてゆくことはこうした自己決定権を手放すことであり、決して容認できないだろう。
自己破壊も究極の「わけのわからなさ」の形なので一概に否定するべきではないと思うのだが、現実的には単なるショーに終わるか耽美的に鑑賞の対象になるだけである。しかし、それでも人に影響を与えるとすればまだ成功した部類だ。
途中で見たように、保守の論客たちからレクチャーを受けていたはずの安倍首相は「自分でなんでもきめられるのだからせいぜい好き勝手にやろう」と考えている。日本には様々な問題があるが、それには目を背けて何もしようとはしない。このように、昨今の保守思想は何もしない言い訳として利用できる消費の対象にしかなっていないのである。
「中国はうまいことやっているように見えるが、長くは保つまい」とか「人権は弱者の言い訳だから逆に嘲笑してやれば良い」というのは単に何もしたくない人たちの言い訳にしか過ぎない。この意味でも保守思想は日本を滅ぼしかねないのではないかと思う。
Comments
“西部邁さんの報道について思うこと” への6件のフィードバック
前提として、不自由を強いられている、本当はもっとうまくやれるはずなのに何かのせいでうまくできていない、という感覚がベースになっているように思います。
西欧の自由主義の考え方は教科書程度のことしか分かりませんが、ただ、不自由なのが世界なわけですから、この考え方の究極は自由意思で世界を終わらせること、つまり自死、というのは整合性がとれています。
この考え方はネトウヨの考え方にも通じるものがあります。もしも社会一般にこの感覚が広がるようなことがあれば、それは最終的に破滅的な結果を招くことになってしまう気がします。
実は「終わらせることだけは自分でコントロールできる」というのは三島由紀夫の件を書いている途中に流して書いたのですが、後で考え直してちょっと恐ろしくなりました。
「これが広がると」というご指摘はかなり本質的なんだろうなと思いますが、今の所それを受け止められるほど考えがまとめきれてないです。
コメントありがとうございました。
このエントリーを読んで安倍首相の「アンダー・コントロール」という発言を思い出しました。
本来コントロールできない/してはいけないものをコントロールしようとする先には、破滅しかないのかもしれません。
書いている時に、安倍さんというか日本について考えたのは、役に立つものだけに限定して大学教育を提供するという姿勢についてでした。もともと何が役に立つのかわからないのにそれが「わかる」し「コントロールできる」と思い込んでしまうのが今の保守思想なのかなと思ったからです。
ただ、これまでのレスポンスを拝見していると、どうももっと大きな枠組みの破滅を想起した人が多いようです。ちょっとびっくりしております。
いずれにせよコメントありがとうございました。
返信ありがとうございます。
下記の記事を読むと、文系を軽視して理系に重きを置く傾向にあるのは日本だけではないみたいですが、とりわけその傾向が強いとは言えそうですね。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/interview/15/238739/072600264/?P=1
記事タイトルにあるとおり、イノベーションの源は実は文系的発想であることは多そうでありますし、思想や物語、美術や音楽などは心の栄養であり、文系軽視は実は弊害が大きそうです。
ドイツには以下のような逸話があります。
バイエル社がまだ新しい街であったレヴァークーゼン市内に居を構えて拡大し始めたころ、高給を設定しても、従業員には住居を提供するという条件を出してもなかなか人が集まらなかった。
苦慮した同社が恐る恐る理由を訊いたところ、美術館/博物館や劇場などの文化施設や教育施設がない街には住みたくないという驚愕の返答であった。
半信半疑で博物館や劇場に加え各種の学校を建設・誘致したところ、応募者が殺到した、というものです。
真偽の程は別にしても、いかに金銭的・物質的に満たされても、心の栄養即ち文化・教養といったものがなければ人は心から満足し安寧を得る事はできないことは確かだと思います。
文系を役立たずと断じる現政権や危うき哉。
そうだそうだ!と思いながら拝読したのですが、アメリカでも<一見無駄に思える>ことを学ぶ余裕がなくなっているんだなあとわかってちょっとびっくりしました。
日本だけの現象でもないんですね。