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日本の村落構造

これまで、明確に定義することなくなんとなく「村落的」という言葉を使ってきた。ここで一度村落的とは何かということを整理して行きたい。ざっくり定義すると、村落性とは構造の定まらない狭い閉鎖空間を指す。

村落性を考える上で、ノートにいろいろな要素を書き込んでみた。なんとなくお互いに関係しているものが多くどれが本質なのかよくわからない。最後まで残ったのは「閉鎖性」と「不確実さ」の2つである。さらに「個人がない」という属性もありそうだった。

日本の村落は閉鎖的である。三方を山に囲まれており前は海というのが典型で、村落には逃げ場がない。また村落での人間関係は補足可能な程度小さい。このため、一生同じ人たちの間で生活しなければらならないし、決定的な対立が生まれると逃げ場がない。さらにマネジメントのために万人に当てはまるような原理原則を作る必要がない。逃げ場がないので、日本人は決定的な対立を避けて、ほのめかすような対話を好む。日本は村落的だというとこの閉鎖性に注目が集まることが多い。

ところがその内部には絶対的な権力構造や固定的な身分はない。つまり、閉鎖された空間の中でどの程度の地位にいるのかということが安定しない。単に閉鎖していて身分が固定されている空間は、日本型の村落とは呼ばれない。

例えば、アマゾンの部落は小さな補足可能な群れがそれぞれ異なった言語を使って会話するといるという形態になっており、小さくても閉鎖的とは言えない。さらに、外国人の侵入を許していた挑戦型の村落には絶対的な身分制度があり、村落の地位はある程度明確な身分制度に支えられている。インドにはカースト制があるが、これはもともと支配人種であったアーリア系の人たちが現地のドラビダ系の人たちへの差別を正当化するために作った制度である。彼らも固定的な社会を生きているので、実はスクールカーストというのは、正しい表現とは言えないのである。

村長のような人が意思決定するのだが、その意思決定は村人の総意である。このシステムを稟議システムと呼ぶ。だが、稟議システムにおいてすべての人の発言権は平等ではない。基本的に地位をめぐる争いは発言力と影響力を巡る闘争だと言えるのではないだろうか。

さらに、村の掟を破ると村人からの攻撃が起こり、ひどい場合にはひとりぼっちや村八分にされてしまう。これが基本的な炎上のメカニズムである。ただし炎上とは呼ばれず「世間を騒がせた」ことが罪になる。村八分になっても逃げ場はない。

例えば「不倫」が問題になるのは、それが世間で悪いということになっているからである。つまり、悪いとわかっているのにそれをやったということは、世間に挑戦しているということになり、それ自体が罪なのだと言える。ワイドショーが本当に言いたいのは、私たちがいけないって決めたことをあなたやっちゃいましたよねということである。だからその人は世間に反抗していないことを全力で示さないと世間から消されてしまう。このため改めて「なぜワイドショーは執拗に不倫を追いかけるのだろう」と考えると答えがない。にもかかわらず専門の記者が「世間」から雇われていて、芸能人や政治家の不倫を常時監視している。

ここまで考えてきたとき、とりあえず「個人がない」という性質が消せることがわかった。そもそも日本には独立した自我を持つ個人などという概念はそもそもないと考えたほうがいろいろわかりやすくなる。個人が自分なりの意見を持つことはないし、自分なりの言葉で話すということもない。さらに個人が支える公共というものはない。だから、そもそも個人主義については全く考える必要がないのだ。

これは世間が所与のものであり、個人が作るものではないというところからきている。つまり、いったん世間が壊れてしまうとそれを修復することはできない。あとは「村八分」になったか「孤立した」個人の集まりになってしまうということである。つまり、個人がないということは、公共が再設定できないということなのである。

見かけ上「個人がない世界」というものを考えるのは難しいのだが、いずれにせよ「主義」とか「原理原則」というものは、個人が考えを持って社会を形成するという前提の言葉なので、日本ではそもそも理解されない。理解されるのは、一人ひとりを正当化するために利用される道具としての論理だけである。「改憲」にせよ「護憲」にせよ原理が理解される必要はない。だからネトウヨの理論は常に破綻しており、パヨクの平和主義は「何が戦争なのか」ということを言えないのである。言えないというより、どちらも興味がないと言えるだろう。

これが顕著に現れるのが学校なのではないだろうか。学校は勉強をする場所ではなく、スクールカーストを通じた闘争を学ぶ場である。この下の方に位置付けられた人たちの視点から見たのが「いじめ」なのだが、それ以外の人たちはこれをいじめだとは考えておらず「いじり」であるとみなす。さらに、いじめは表立った権力闘争ではなく冗談めかして行われる。このため、日本には権力闘争を巡る言葉はなく、カーストやマウンティングという外来概念を使って初めて意識されている。

日本のお笑いはすべて「いじり」であり、その本質はいじめられた経験のある人なら「いじめだ」と感じるようなものばかりである。漫才の二人組は、いくつかの例外を除いては「いじる側といじめられる側」だ。相撲の世界ではいじめは教育の一環だと意識される。が、教育としてのいじめがなくなると、今度は「管理される側」の跳ね上がりがある。いわゆる下級校が荒れる時、先生たちは「暴力や権威化なしにこの生徒たちを管理するのは無理だ」と感じるのではないだろうか。

日本の学校からいじめをなくすのは簡単である。閉鎖された集団であるクラスをなくして、教科によって教室を移動するようにすれば良い。クラブ活動を学校でやる必要はなく、放課後にクラブチームに参加すればよい。だが、このように提案しても日本人はこのような形態を教育とは認めないだろう。教育の本質は閉鎖された空間で競争することを学ぶことであって、その学ぶ内容や体得するスキルなどはどうでもよいのである。

いったんこれを認めてしまうと、企業が体育会系の人材を好む理由がわかる。企業は’特に顕著なスポーツの成績を重要視しているわけではなく、スクールや体育会でのカースト競争に順応した人が欲しいのである。彼らは仲間を牽制し部下たちに忍従を強いることによって「企業が一つになり強くなる」と考えるのだ。

ゆえに、今の形の教育を温存した上でいじめをなくすためには「いじめる側にならなければ、いじめられるぞ」という教育を徹底すべきだということになる。

いっけん狂っているように見える考察が続くが、同時に多くの問題を外来概念に頼らずにすらすらと解くことができる。日本の問題の多くはこの村落性によって説明できるのだ。

不倫についてはすでに述べたが、例えば日本のワイドショーが日馬富士の暴行問題ばかりを取り上げるのも日本人にとっては村の内部の権力闘争だけが物事の本質だからである。相撲村の中で認知されたいモンゴル人、興行としての利権を温存したい八角理事長、日本人だけの純化した相撲を取り戻したい青年将校としての貴乃花親方という図式が面白くて仕方がないのではないか。

相撲報道は「原理原則」を巡る統治の問題としては意識されない。お互いの言い分や文章を事細かく比較して「どちらが正しい」とか「誰が間違っている」などということを延々とやっている。相撲村は閉鎖されていて逃げ場がないが、同時に何が正義であるという絶対的な価値観もなければ、中心となって村を収める権威もないという流動的な空間である。これが日本人にとっては自然な状態であり、この内部のやりとりこそが面白いのである。

と同時にこうした村落的な状態が多く露出することが「日本の衰退」を印象付けているのかもしれないと思う。

例えば安倍首相は、世界で通用するような合理的な説明をやめ、身内でしか理解できない理屈でその場限りの政治を行うようになった。つまり、西洋的な政治を捨てて日本型の村落内部の権力争いに戻ってしまった。しかしながら野党も特に問題解決する様子は見られず、単に自分たちの立場を補強するための理屈を並べ立てばかりいる。現在の政治は、原子力村とか教育村とか公共事業村といった利権村のかばい合いと、野党村の争いであると言える。

日本人は戦後70年以上、西洋のように個人主義を理解すれば世界村に認めてもらえると思って努力してきたのかもしれない。多分、これが見込み違いだったということをうすうす感じているのではないだろうか。

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Comments

“日本の村落構造” への4件のフィードバック

  1. M.MATSUBAのアバター
    M.MATSUBA

    一番の問題は、個人主義を理解したつもりになっていたけれど理解していなかったということではないでしょうか?
    日本では個人主義が利己主義と混同されている気がします。

    1. 毎回、整理もされておらず長々と書きたいことだけ書いてあるものにお付き合いいただきありがとうございます。恐縮です。
      一応今回の<お話>の筋からすると、日本には個人がないので、そもそも個人主義がないという整理になります。なので、利己主義というよりは集団の中での序列争いになってしまうという整理です。漢字も英語も使わないと「わがまま」という言葉だけが残りますもんね。
      正論を語るなら、個人主義についてちゃんと学ばせるべきだろうみたいなことになるんでしょうね。

      1. M.MATSUBAのアバター
        M.MATSUBA

        ああ、Hudezumiさんが混同しておられるという意味ではなく、日本で「個人主義」が話題に上る時、真の意味での「個人主義」ではなく「利己主義」に近い意味で使われてしまっているのではと思うのです。
        そしてそれは、「個人主義」というものを理解していないから生じる誤解ではないかと思った次第です。
        判り難くてすみません。
        本来「個人主義」は、自分のみならず他者も含めた総ての個を認め、お互いに敬意を持って成り立つものだと理解していましたので。
        それを「利己主義」と混同しているが故に、「良い意味での個人主義」などという頓珍漢が罷り通るのかなあ、と。
        尚蛇足ながら、伊丹十三さんは「良い意味での個人主義」という言葉が大嫌いだと『ヨーロッパ退屈日記』に書いておられますが、50年前既にそういうご認識がなされており、その時からなんら理解が進んでいないと思うとやりきれない気持になります。

        1. まあ、本当は自分の言い分を聞いてもらう代わりに相手のことも聞いてやるっていうのが個人主義だと思うんですけどね。
          確かに、そういう相互主義的な感じにはならないですね。非常に不思議です……

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