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内田樹さんの痛ましい迷文を味わう

サンデー毎日に内田樹さんの痛ましい文章が掲載されている。これが無料公開されていて、毎日新聞のヘッダーがついていたせいもあり拡散されていた。

当初「知の巨人」と書かれていたのでそれだけで読む気がなくなり放置していたのだがこのツイートを見て精読してみることにした。心理分析としては面白そうだったからだ。

内田さんの文章を批判するつもりはないが、読んでいて痛ましい気分になった。表面的な痛ましさは現在を理解するのに欠かせない「複雑性」がすでに彼にとっては理解不能な概念になっているにもかかわらず三流の週刊誌から「知の巨人」と持ち上げられているという点に由来するのだろう。

だが、この文章を読んでゆくと、日本のリベラル運動というものがどのようにして砕け散ったのかということがよくわかるし、そもそも存続することさえ無理なのではないだろうかと絶望的な気分になる。では、日本のリベラル(内田さんは自身を左派リベラルとは認識していないとは思うのだが……)はなぜ砕け散ったのだろうか。

読むのが面倒だという人のために要約してみた。冒頭の一文はめちゃくちゃだが、実際にこう書いてある。

小選挙区は株式市場のような複雑系だ。複雑系は予測しない変化を生み出すはずだったが、投票率が低く決定論的システムになった。これは既得権に有利な状況である。

安倍政権は国会審議と党運営を通じて用意周到に立法府を機能不全にし、結果的に行政府が優位になった。

安倍首相の言い間違いはフロイトによると無意識の発露で行政府のおごりを象徴している。

法律の制定と実行が重なった安倍政権は独裁政権だがマスコミはそれを咎めなかった。

この最終段階が緊急事態条項だ。民主的な手続きで独裁制を完成させようとしている。

いったん立法府が停止されるとデモで意思表示するしかなくなるのだが、デモは社会秩序の混乱として緊急事態を正当化するのに利用されるだろう。

家庭も学校も部活もバイトも就職も全て株式会社的なので出口のない独裁に向かっていても国民の反応は鈍い。

日本人は株式会社しか知らず民主的な組織を見たことがないから、民主主義は空想にしか感じられず「お花畑」と揶揄される。

しかし対処方法はある。良識の府としての立憲政治を回復しなければならない。このためには選挙制度を改めて、首相の解散権を制限すべきだ。

以上である。以下、しみじみと鑑賞して行きたい。まずは科学的知見が使われているが間違っている。

複雑系はフィードバックが込み入っており予測が難しいかあるいは不可能な状態を意味する。例えば砂山は複雑系で崩れることはわかってもいつ崩れるのかはわからない。つまり複雑系とは予測ができないことを意味している。確かに自由経済市場において株式市場は複雑系なのだが、小選挙区は投票の結果なのでフィードバック体系が複雑とは言えない。出口調査で予想できる程度の複雑さしかない。むしろ、小選挙区は小さな違いが結果を変えるという意味で「投票意思の単純化装置」である。

そもそもこの冒頭の文章はそもそもが破綻している。複雑系だと言っておきながら複雑系にならなかったと言ってしまっているからである。そもそも小選挙区制度は複雑系ではないので論に無理があるのだが、それでも論が成立しているように見えるのは「小選挙区制度にケチさえつけられればどうでもいい」からなのだろう。

無論、小選挙区には問題があると感じる。少数意見が反映しない点が問題なので、いつまでも不満がくすぶり続ける。これが民主主義への信頼を失わせる。だからそういえば良いのである。小選挙区制が採用され続けるのはこれが自民党に有利だからであり、何も有権者が小選挙区制を望んでいるからではない。

だが「絶対に小選挙区制はダメ」と言いたい時日本人はもう一つの宗教である科学に頼ることがある。複雑系は新しい概念なので宗教としての効果はそこそこあるが、どうやら筆者には全く理解されていないようだ。これを読んだ編集者も読者も理解していないはずである。一方、フロイトは理解しやすいが心理学の現場ではすでに古びた理論であり宗教としても役に立たない。それでも構わないのは科学は単に権威付けのために利用されているだけだからなのだろう。

次に痛々しいのは自民党が票を集め続ける理由である。普通に考えると民主党政権が政権維持に失敗したから自民党への支持が集まるのだが、民主党の問題を迂回しているために大惨事が引き起こしている。これを意図的に隠蔽しようとしているのかあるいは無意識なのかがわからない。フロイトに聞いてみるべきかもしれない。民主党の失敗のせいにするとこの後が続かないので、制度の問題と飼いならされた民衆の問題になっているのである。

だが、この文章にも見るべきところはある。そもそも、内田さんは何をイライラしているのだろうか。つまり、民主主義的な投票の結果自民党が勝っていることの何が気に入らないのだろうか。多分、あるべき社会の雛形がありそれが実現されないことに憤っているのではあるまいか。

この点を踏まえつつ次に進みたい。多くの人が違和感を持つのは「株式会社」の使い方ではないだろうか。株式会社にはそれなりのガバナンスがあり研究も加えられている。その知識体系が経営学である。この文章の痛々しさはそうした西洋流の経営学が日本に根付いていないということからくるのだが、内田さんの背景が学者であり経営には無縁であるという点を除いても、必ずしも内田さんのせいだけとはいえないかもしれない。内田さんは多分「儲け主義で温かみがない」というような制度のことを「株式会社」と読んでいるのだろう。この特に学校や社会で問題になるのは「温かみのなさ」である。

経営学的には株式会社には正解がないとされる。こちらもいろいろな学派があるのだが、たとえばミンツバーグの「戦略サファリ」には様々な株式会社の形が書かれている。ミンツバーグは陶芸をやっている妻に影響を受けてこれを書いたというようなことを言っており、科学ではなくアートであるととらえるべきだろう。

そもそも正解がないのだから「典型的な株式会社像」はない。にもかかわらず内田さんが典型的な株式会社像を描けてしまうのはなぜなのだろう。

日本の株式会社的社会は人件費を抑制することでとりあえず営業収支と経常収支を安定させる方向に進化した。だから日本から株式会社を眺めている人がこのような感想を持つのも無理からぬことだ。アカデミアも経費削減のプレッシャーにさらされているので、多分共通した感想を持つのであろう。ではその裏にある「温かみ」の合理性とは何なのか。

温かみの排除とは「短期的につじつまを合わせるために中長期的な視野を放棄せざるをえなくなった」という日本的な事情があるように思える。日本の知的資産は暗黙知的に蓄積されているので崩壊過程がわかりにくく、わかった時には手遅れになる。つまり、困窮した人たちはついつい目に見えない宝から先に売り払ってしまうのである。

この日本的に破綻した状態を<株式会社>とくくってしまうとそれ以上のことを考えなくなってしまうので、却って解決から遠ざかってしまうのではないだろうか。

実は同じような問題が「民主主義」にもあるのではないかと思われる。

そもそも、日本人が感じる自然で民主的な社会とはどのようなものだろうか。「お互いがお互いを家族のように思いやっていて、それぞれの役割を果たしてゆく」という村落的な光景を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。そしてそれは森や川のような障壁で外部から守られている。山懐に抱かれたような安定した社会である。

だが、これは戦後の荒廃した都市に住んでいた人々が憧れた架空の村落なのではないだろうか。実際の村落は閉鎖的空間であってお互いに既得権を守りながら他者を排除する場である。共同管理にも入会地のような複雑な利権が設定されている。実は日本人はこうした閉鎖空間がいやで都市に逃げ出してきたという経験を持っている人が多い。

西洋的な民主主義がどのような背景を持って生まれたのかはわからないが、そこには拡張への憧れがある。拡張には不安がつきものなので、それをどのようにして超えてゆくかというのは民主主義の大きな課題だ。そして皮肉なことに、西洋的な民主主義社会はキリスト教的な価値観を持ちながら自由に経済的利益を追求するというような代物で、試行錯誤を背景にした内田さんのいうところの「株式会社的」な社会である。

つまり、実際に民主主義の名前のもとで行われていることと、日本人が憧れている民主主義と、西洋型の民主主義はどれも異なっている。

では、内田さんが理想とする社会はどのような社会で、それは実現可能なものなのだろうか。それはよくわからない。わからないものの、とりあえず目の前にある自民党政権は理想とは程遠いということだけはわかる。

そもそも民主党政権の間違いは何だったのだろうか

それは実は選挙で約束したことを実行しようとしたことなのではないだろうか。選挙で有権者は「変化を起こしてくれ」と要望したのだが、実際に予算の妥当性の審査が始まると、国民はこれに不安を覚えるようになった。さらに地震や原発事故などの不測の事態が起こると、日本人は予測不能性にいいようのない不安を感じた。これは有権者だけではなく自民党にも大きな影響を与えた。反動として生まれたルサンチマンを結晶させたものが二つある。徹底的に話し合いや説明を拒む安倍政権と国民主権を否定する憲法草案である。

つまり、日本人は民主主義というものがよくわかっておらず、それが実現したことに恐れおののいたということになる。

実は自分たちが探しているものが何なのかよくわからないという問題は何も内田さんだけのものではない。実はこの文章の痛々しさを探って行くと「我々がどこにゆこうとしているか、我々自身が決めかねている」というかなり大きな問題に辿り着いてしまうのだ。

日本人は民主主義を宗教のように扱ってきた。同じような傾向は科学にも当てはまる。実は誰も複雑系について理解していないのだが誰もその間違いを指摘しない。それは街のおしゃれな看板にある英語のようなもので文法や綴りが間違っていても誰も気にしないのと同じことである。

この不安を払拭すつためには、まずはそれぞれが「自分たちが本当は何を求めているのか」ということを知らなければならないのだが、日本人は不安になりすぎていてそのようなことができないのだろう。そこでルールや仕組みを変えれば自ずから理想が実現するというように思い込みたがるのだろう。与党側にとってはそれが憲法であり、野党側にとっては選挙制度なのかもしれない。

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