加計学園問題に関する文部科学委員会の答弁を一部聞いた。これを聞いて「特区下で認可するというのならそれはそれで構わないのでは」と思った。
加計学園が今治に獣医学部を開学するにあたって政府は石破4条件をクリアしたこれまでにない素晴らしい獣医学部ができるという理由での「説明」を試みていた。しかしこれは日本で多く見られるように単なる説明のためだけの説明である。これを日本語では建前といい本音は別のところにあるということは与野党共わかっている。
この説明が嘘であることは委員会審議を通して明らかだった。与党は「手順通りに行われたのですね」ということを確認するばかりで答弁も当然「手順通りに行われた」というものばかりだった。つまり中身について説明できないのだ。さらに野党の逢坂委員の説明はたびたび中断した。そもそもこれまでの答弁の解釈について当事者が説明できないのである。本来はこれまでの答弁から内容を明らかにし、それからその矛盾を追求するというやりとりになるはずなのだが、そこまで行かないで質問が終わるのである。(毎日新聞の記事によると10回中断したそうだ)
しかしながら、答弁の内容は実は人によって微妙に異なっていた。林文部科学大臣は「所管ではないから答えられない」と言っていた。政務官レベルは「法律の趣旨に基づいてやっている」と主張した。そして、文部科学省の官僚は「上から降りてきたから審議はしなければならないし、訴えられるのも怖いので形式的に流した」と説明した。
特に顕著だったのは官僚の答弁である。彼らは実は加計学園問題には関心がない。委員会答弁に実績として「自分たちは責任がない」という理屈を残しているだけなのである。判断したのは有識者だが彼らも議事録を残さないことで責任を取らなくてもよいことになっている。
どうやら戦略特区の背景にある精神は「政治の力を使って無理筋のものをねじ込む」というものらしい。ある議員はTwitterで「裏口入学」と言っていた。つまり、政府関係者に近い筋にある人たちを優遇するための制度なのである。もともとそれが狙いなので「私物化した」ということを証明しても違法だという認定はできないのだ。
石破4条件というかなり高いハードルが設定されたのだがそれは単に建前であって、実際には表から入れない人たちを役人の智恵で合格させるという制度だ。官僚たちは「忖度」しているわけではなく実は法の精神に基づいて働いているのである。計算違いがあったとすれば、学校がとんでもないどらむすこであったという点くらいのものだろう。普通の精神であれば「30点しかないから勉強しなさいね」と言われれば恐縮して勉強しそうなものだが、それでも勉強せずにほとんど何も書かない答案を出して「名前はあるから合格でしょ」と言っているのである。
もともと入り口選定のプロセスは特区の許認可とは別のところで行われている。つまり、政治的に選抜しているのだ。政治的に選抜というと聞こえはいいのだが、要は自民党の要職にある人たちの意向が反映されやすいということである。つまり、戦略特区とはもともと政治が行政に介入するために設計された制度なので、今回のような議論になるのは最初からわかっていたことなのだ。
この過程で京都産業大学は特区を利用することを辞退したのだが、実際には辞退する必要はなかった。加計学園程度でも形さえ整えれば学校を作れるのだから、京都産業大学も厚かましさを発揮して残ればよかった。今回の過程を見ていれば、多分「ああ入ってしまえばあとは何をやっても良いのだな」と思う人が大勢出てくるだろう。今後特区は「席に座って名前さえかければあとは努力しなくても周りがなんとかしてくれる」制度になるはずである。
これまでの日本の制度は「問題がありそうなものをすべて排除する」ことによって、民意が反映されないという制度だった。つまり、民意というのは間違える可能性があるので「親心」で何もさせないというのが日本のやり方だったということになる。つまり、完全な民主主義国家ではなかったということだ。
だが今回の特区はつまり「政治家が責任をとるからとにかくやってみよう」という制度である。安倍首相に一つ間違いがあるとしたら、国会でこう言わなかったことくらいなのだ。
加計学園が私のお友達であるのは確かだが、実力が足りない学校でもないよりはマシだし、そうでもしなければ地域振興ができないのだからグダグダ言わずに認めるべきだ。とにかく選挙で自民党が負けなかったのは、つまりこのやり方が黙認されたということなので、野党にとやかく言われる筋合いはない。
国民が自民党政権にあまり拒否反応を示さないのは、何か問題があっても霞ヶ関の優秀な官僚がなんとかしてくれるだろうという了解があるからだろう。ついでにいえば防衛に関してはアメリカに管理されておりこちらも間違胃がないと思っているのではないだろうか。つまり、完全な民主主義ではなくどこかで修正されるという期待があるから政治にあまり関心を持たないのだ。
この加計学園の委員会審議はすべての国民が見るべきだと思った。つまり、民主主義が実現していて、もう官僚やアメリカの「親心」が期待できないということである。
今回は学校だった。実際の生活にはそれほど影響がない。今治市は「土地を無償で譲渡して市民生活に影響がある」と言っているが、実は道路誘致と土地政策の失敗であって、大学がこなければ早晩破綻する土地だった。つまり、あの土地は何かに利用できる土地ではなくお金をかけたものの森に戻さなければならない程度の土地だった。さらに、獣医師になる試験を厳しくすれば実力のない獣医師が入ってくることはない。
しかし、冷静になってこの特区を見てみると「外国から労働者を入れて格安で使う」という制度が多いことがわかる。これは地域に大勢の格安労働力が入ってくるということだとわかる。日本にはパスポートコントロールがないし、入ってきた人のパスポートを取り上げることはできないので、こうしてなし崩し的に入ってきた経済移民が多くの町で見られるようになる日も近いだろう。
つまり、今回加計学園のでたらめを放置したことで起こる影響は実は広範囲に及びかねないわけだが、これも民主主義の帰結なのである。その時に官僚をせめても彼らは「自分たちが責任を取らない理由」という長大な論文を国会答弁のなかに仕込んでおり何もしてくれないだろう。
我々が知らなければならないことは一つしかない。日本は官僚的温情主義を捨てて、普通の民主主義国になろうとしているのである。