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なぜネトウヨの議論は机上の空論なのか

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面白い本を見つけた。「単一民族神話の起源」という名前が付いている。日本は単一民族の国だというのは「神話だ」と言い切っているのだ。

いきなり明治時代の日本人像の構築過程から始まるのでとても読みにくい。これは小熊英二さんの修士論文なので「結論が先にあって各論で補強する」という構成にはなっていないのだ。「日本人は白人である」などの各論も面白いし「ここに書かれているものを全て読んだのか」という驚きもある。だから「ざっくり概要をまとめる」というのは一種の冒涜行為かもしれない。だが、先に進めるために概略だけを説明すると次のようになる。

日本は開国以降自己像の構築を迫られる。紆余曲折を経て「日本人はもともと純血である」という純血論と、「南北アジア人の混血である」という雑種論の二種類が生まれ、最終的には雑種論が優勢になった。純血論は外からの働きかけに対して国を防衛しようという考え方の表れであって、雑種論はアジア圏に日本人が進出してゆくのに都合がよかった。

日本が国の形を整えて、帝国に移行すると、純血論では支配地域の人間を日本帝国に飲み込むことができない。そこで雑種論が優勢となる。しかし、一方では統合のための原理を確保する必要があったので「日本は天皇を父とする家族である」というような論が採用された。しかし、血による家族では人口の1/3を占める朝鮮人が統合できないので、家族は血によって統合されるのではなく「養子もあり」ということになった。つまり、養子でもその家の雰囲気に染まれば立派な家の子供になれるというような理屈だ。しかしそれは、名前と言葉を捨てて日本文化に染まるべきだという考え方に変わりなんとなく採用されてゆく。

ところが、このような議論が国によって統一された形跡はない。議論に逮捕者がでると議論全体が萎縮し、第二次世界大戦時期には議論そのものがほとんど行われなくなる。そして、海外領土が失われると雑種論を推進する根拠がなくなり、今度は純血論が優勢になり、これもなんとなく日本人は単一民族なのだという論が採用されることになった。これが現在にまで続いている日本人が単一民族なのであるという神話の成り立ちである。

統合原理のない国

この論文にはいろいろな読み方があるのだが、下記の点に注目した。

第一に現在のネトウヨの議論が机上の空論に終わる理由がわかると思った。つまり日本人が何者かという議論は収束しないままうやむやになって終わっているので、都合の良いところをつまみ食いするとどこかで必ず破綻してしまうのである。なぜ破綻するのかを考えてゆくと大切なところを決め込んでいないからだということがわかる。では何が大切なところなのだろうか。

第一に、日本人は純血なのか混血なのかという対立点がある。他のアジア民族から優位であると思われるためには純血であった方が都合がよいのだが、朝鮮半島や中国を支配するためにはユニバーサルなアジア人だと思われた方が良い。だが、ユニバーサルなアジア人モデルを使うと、日本人と朝鮮人に外見的・遺伝子的な違いはないのだから支配の正統性が証明できなくなる。日本人が持っていた優越感は中国が世界経済の担い手に復帰する1990年代までは続いたのではないだろうか。

日本人論ができ始めた当時は民族主義が台頭していた時期なのだが、同時に植民地支配も正当化されていた。つまり日本人を規定する際に、支配者たる資格があるのか、それとも中国人のように植民地支配されても仕方がない民族なのかという問題が降りかかる。このために「日本人はもともと白人だった」というような説すら真面目に議論されていた。このため、単一民族か、混血なのか、しかも惨めなアジア人の一員にすぎないのか、特別に選ばれた選民なのかという揺れに決着がつかなかったのだろう。

この問題は朝鮮人が国内に流れ込むことによって、日本に住んでいる人であっても、日本人と非日本人がおり、世代を重ねて朝鮮人が日本語を習得すれば、違いがなくなってしまうという問題も生み出した。朝鮮人が国をまとめられないほど無能な民族だと仮定すると、彼らが日本人になるのは由々しき問題である。しかし、もう内包してしまったのだからこれを押し戻すことはできない。

この第一の問題は小熊論文では多く取り上げられて問題視されている。だが、日本人論が定まらなかった理由のもう一つは別のところにあるかもしれないと思った。

権威は利用したいが支配はされたくない

第二に、西洋と対峙するにあたってキリスト教の聖書のように教義がはっきりした経典を作りたいという気持ちと、特定の権威を認めたくないという気持ちの間に揺れがあったのではないかと思った。これは、天皇の権威は利用したいが、かといって天皇に支配されるのはいやだということである。このことから日本人論に国家機関が絡むというようなことはなかったようである。つまり、社会の間に定説が生まれなかったのである。

この傾向は実は長い間日本人に意識されることはなかった。戦後、河合隼雄やロラン・バルトがそれぞれ「日本の中心はがらんどうである」という論を出すと、日本人はそれを驚きを持って迎えた。この中空構造は日本人が権威を利用しつつ支配されないようにするための巧妙な仕掛けだったのだが、あまりにも巧妙すぎて日本人すら気がつかなかったということだ。

日本人は小さな集団を作り、相手からあれこれ指図されることを嫌う。しかしながらそれでは国がまとまらないし内戦状態に陥ってしまうので、トップに「何もしないがとても崇高な」ものを置くことでお互いを牽制するという智恵がある。これががらんどうの中心である。

例えば東京都は中心に都知事をおいている。強い権力を持っているが東京都知事はこれを行使しない。そのことによって特別区の中にそれぞれの権力構造を作ることができる。小池知事が間違えたのはここで、東京都を大統領制の国のように考えたのだろう。各区の利権構造に手を入れてしまったので何もまとまらなくなってしまった。江東区と大田区が領土紛争を起こしたり、江東区と中央区の間で魚市場を巡った争いが起きている。つまり、権力者になるということは争いの当事者になるということだから、調停する人が誰もいなくなってしまうのである。東京都民が都知事に期待しているのは尊敬はされるが何もしないというような人なので、小池人気が凋落するというメカニズムが働くわけである。

このような傾向は今でも続いていて保守派を名乗る人たちに顕著に見られる。天皇の権威は利用したいが、天皇が退位したいといえば「わがままだ」という保守の人がいる。天皇陛下が高麗神社を参拝された時には「反日天皇」という言葉すら生まれた。同じようにアメリカの軍事的権威は利用したいが押し付けられた憲法は嫌だという保守派も大勢いる。軍事的には利用したいが経済的な注文は無視したいと思うような人たちだ。つまり、権威だけは利用したいが決まりごとで縛られるのはいやなのだ。

いずれにせよ、日本で中核的な日本人論ができなかった裏には、誰かが中核的な議論を作りそれに進んでしたがおうという気持ちにならなかったからだろう。戦前の日本人論の成り行きをみると、権威が生まれると、議論と称して足を引っ張り合い、最終的には「あいつは不敬だ」という言いがかりをつけて辞任や出版禁止に追い込むようなことになる。結果議論は萎縮し、決着をえないまま、なんとなく戦後になだれ込むようになったのではないだろうか。

そこで日本人が考えた統合理論が「家」だった。つまり、家族が仲良くするのがいいことだというような理論が作られたとも言えるし、一生懸命考えた挙句にそれしか残せなかったということになるのかもしれない。いずれにせよ、なんとなく道徳的に誰もが否定できないものだけがなんとなく残ったのが戦後保守なのである。

だが、この「誰でも納得するだろう」という統一原理も実はユニバーサルな価値観ではなかった。日本では家に養子を迎えることにそれほどの拒絶反応はないが、中国や韓国では家とは血族集団であり、自分勝手に入ったり抜けたりできるようなものではない。これが「創氏改名」が朝鮮半島で第反発を受けた理由になっている。

これが現在の宗教である民主主義との違いなのだろう。民主主義はキリスト教の後継として生まれてから、様々な社会で試行錯誤された結果、ある程度洗練された思想体系となっている。日本の「みんな仲良く家族主義」はこうした歴史のテストを受けていないので、外国人だけではなく日本人さえも説得することができないのだ。

戦後の憲法議論にも影を落とす

日本では国家像が整理されないままに停止して敗戦を迎えた。ということは、保守の基幹になる統一原理がないということである。つまり日本には保守主義など存在しないのである。こうした矛盾点を見つけるのは実は難しくない。

例えば三原じゅん子議員が「日本には八紘一宇という素晴らしい考えがある」と言った時、これは帝国を前提にしているのでアジアのユニバーサル主義を志向しているはずである。だが、実際には保守派の人たちは中国や韓国に対しては差別的な考え方も持っている。これは日本人は純血であるべきという純血主義だ。ゆえに、これを真面目に考えて行くと必ずどこかで破綻することになるはずだ。これが破綻しないのは、三原議員がそれほど深くこの問題について考えていないか、誰かのアイディアのコピペであり単なる個人崇拝だからなのだろう。いずれにせよ体系化された主義ではなく、戦前の議論の断片が転がっており、それを好きに並べてインテリアとしては機能する程度の「戦前レトロごっこ」ができるようになっているということだ。

さらに安倍首相は、アメリカに押し付けられた憲法だからみっともないと言いつつ、実際にはアメリカの軍事力に依存している。つまり、アメリカからあれこれ指図されるのは嫌だが、アメリカの威光は利用したいということだ。これが破綻しないのも、あまり深く考えないからだろう。

「考えない」ということは意見交換することも論破することもできないということになる。しかし、相手を説得することもできないので、いつまでも議論は膠着することになるだろう。だが、安倍首相はそれでも構わないのであろう。

それでも構わないのは、相手を説得する必要がないからである。なぜ説得する必要がないかというと、新しくできる憲法はみんなを縛らないものになるからだ。

強硬な保守派から「押し付け憲法はみっともない」とか「天賦人権は日本人には向かない」という議論を聞くことができる。であれば、国民を説得する代替えの統合原理を提示する必要がある。だが、実際にこうした論を深掘りしていっても「天皇というのはお父さんみたいなものなので、みんなで仲良くしようよ」というくらいの論しか出てこない。実は日本の保守にはその程度のコンセンサスしかない。

天賦人権は日本人に向かないという論を受け止めたとしても、それに変わるのは「家族でみんな仲良く」というような稚拙な議論だけであり、ではその家族をどう定義されるのですかという問いかけにも「家族といえば家族だろう」くらいの返事しか戻ってこないだろう。

家族は仲良くして、何かあったらその都度話し合おうということは、つまり何も決めないのと同じことである。

歴史的に見ても日本人は自分たちの動機で憲法を作ったことはない。最初は中国に向けて体裁を整えるために憲法を作り、次にヨーロッパからバカにされないために憲法を作った。最後の憲法はアメリカから押し付けられた。つまり、自分たちで自己規定はできず、常に外来的な要因のために憲法を整えてきたのである。日本人にとって憲法とはそのようなものであり、つまりファッションみたいなものだ。

いずれにせよ、日本人は自分は憲法のような経典からは自由でありたいが、他人は縛りつけておきたいと考える。この方法だとやがて社会が崩壊してしまうので、当たり障りのない権威を中央においた上で縄張りを切ってお互いに侵入しないような社会構造を作りがちだ。憲法というのはその意味では日本人には向かない考え方だと言えるし、日本人に向いた憲法は多分「何かあったらその都度仲良く話し合うように」程度のものだということになる。

すべてのイデオロギーは単なる信仰にすぎない

今回の文章は主に保守派と改憲派を批判する内容になっている。つまり、保守派が守りたいと考えている価値体系は実は存在しないということで、価値体系が存在しないのは保守派が無能だからということである。

では護憲派が正しいのかというとそうでもない。民主主義は単なる宗教にすぎず絶対的な原理ではない。つまり、みんなが信じないと無効になってしまうということである。にもかかわらず、護憲派という人たちはこれを絶対的な真実だと思い込みたがる。実は民主主義が内面化しておらずこれを心から防衛することが難しいからなのではないかと思う。

例えば、憲法第9条は宗教なので、常に信仰心を持ち続けることが重要だ。これは単に内面的に信じるだけでは維持できない。キリスト教徒のように教会に通ったり、イスラム教徒のように日に五回お祈りをしなければならない。さらに北朝鮮のような敵国にも「それを信じ込ませる」布教活動が必要だ。つまり、信仰には行動と集会が欠かせないということになる。

だから、これを「絶対的な真理だ」と考えると懐疑派を巻き込めなくなる。絶対的な真実であれば行動しなくてもおのずから実現できるはずだからだ。

だが、護憲派に「憲法第9条は宗教にすぎないですよね」などというと多分ぶん殴られるのではないだろうか。

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