どうして安倍政権が野放しになるのか

市の施設で、ラックに押し込められるように置いてある資料を見つけた。わら半紙に両面コピーでびっしりとなにやら書き込まれている。多分、誰も手に取らないだろうなあと思ったのだが、中を覗いてみた。
中にはマニフェストに対応したアクションプランが掲載されていた。それぞれのプロジェクトにはタイムラインとKPIがある。もし変更があれば、変更点も書き込まれているようだ。
が、かなりたくさんのプロジェクトが走っているので、全てを把握することはできそうにない。資料としても重いので持って帰る人もいないだろう。いちおう工程表はPDFで公開もされているようだが、かなり細かい。そもそも市民はそれほどマニフェストには興味を持たないだろう。
担当部署に聞いたところ、ドキュメントそのものへの問い合わせはないそうだ。プロジェクトに興味がある人は担当部署で対応するので、どれくらいのリアクションがあるかもよくわからないという。担当者は誰かから引き継いだらしく、文章が作られた意義や経緯とか、他の政令市がどのような取り組みをしているかということは知らないらしい。つまり、作っている方もあまり関心がなさげである。
もちろん、自己報告なので嘘もつけてしまう。一応、市議会には報告が上がっているようであるが、市議会も真面目に見ているとはちょっと思えない。が、市民の注目度も高くないので嘘をつかなければならない動機はない。つまり、注目されないことにはメリットもある。
いずれにせよ、千葉市ではマニフェストは「選挙の時の口約束」になっていないというのは間違いなさそうだ。選挙の時の約束は行動計画にブレイクダウンされて行動計画は検証可能な目的を伴っている。たいしてテレビにアピールするような項目はないが、それでも着実に実行しようとすると、これだけのものになってしまう。注目度がそれほど高くないことを考えると、別にやらなくてもいいような仕事である。だが、それを真面目にやっているところに意味があるのではないかと思う。
現在の千葉市の市長は今は無所属だが、もともと民主党の市議だったという人だ。つまり、民主党政権が続いていることになる。かといって市政はめちゃくちゃにはなっていない。つまり、今の自民党政権がいうような「野党に政権を渡したら大変なことになる」というのはデマである。この工程表には「市民と行政を育てて行きたい」という市長の意気込みがあり、これが2009年以降、ずっと続いている。ちなみにさいたま市も同じような実行計画があるようだ。こちらの市長はもともと自民党の県議だったが、みんなの党と民主党の推薦と支持を受けたという人だそうだ。
国政でも民主党は2009年以降政権を担当したのだが、テレビ慣れした代議士が多く「とりあえず視聴率が取れることをやろう」という意識が強かったようである。そのためパフォーマンス重視の政権運用に終始し、最終的に「あの政権だけはダメ」という強烈な印象を残した。視聴率を稼ぐためには誰かを非難するのが一番手っ取り早い。しかし、誰かを非難して政権をつかむことと、着実に政権を運営することは全く別のことで、両立は難しいのだ。
もし、民主党政権が、3年の間に地道に政権運営していれば、我々が政権交代に対して持っていた印象はかなり違うものになっていただろう。今、森友問題や大臣の失言のように政権が吹っ飛びかねないスキャンダルが山積みになっても自民党が無傷なのは追求するのが民進党だからだ。
この国政での民主党の失敗は、のちに「安倍政権がどんなに無茶苦茶なことをやっても、とりあえず民主党よりはよい」という理解になり、安倍政権を増長させている。
千葉市は、財政が傾いて前の市長が汚職で逮捕されたあと、自民党に関わりのなかった市長が当選して今に至る。この市長は市議の経験があったので行政がどう動くかを理解していたこともあり、市職員も離反しなかった。自治会への依存度が高かったり、中心部が空洞化しつつあったりと、不調な点もあるが「前に比べるとマシ」という状態にあり、非自民への嫌悪感が生まれなかった。これが維新などのポピュリスト政党の台頭を防いでいる。国政を考え合わせると極めて幸運なことだったのかもしれない。
そう考えると国政レベルの「絶望」のかなりの原因は現在の民進党の執行部にあることになると思う。
ただ、政党だけに問題があるとは言えない。千葉市でもマニフェストに対する市民の関心はそれほど強くないはずだが、国政ではさらに関心が薄いだろう。千葉市長もちょっとしたツイートが反発を受けて、ジェンダー絡みの一部の人たちからは「敵認定」を受けている。地道な活動はあまり注目されず、ちょっとしたツイートだけで評価されてしまう。この意味で、政治は極めて「スマホ型」になっている。瞬間的に生じた印象で全ての評価が決まってしまうし、情報ソースが狭いのでいったん生じた印象が固定化されてしまうのである。
そこで生まれるのが小池都知事のような「劇場型」の政治家だ。劇場型政治は対立がそのまま政治だと理解される。例えば、築地・豊洲の問題ももはや本質的な議論とはいえない。本質的には「伝統的な魚食文化を守りつつ」「高度化した流通にも対応する」という両建ての議論が行われるべきだが、どちらかを二者択一で選択しなければならないという思い込みが生じている。だが、冷静に考えてみると「銀座久兵衛」と「すしざんまい」のどちらかしか寿司屋として残れないというのは乱暴すぎる議論だろう。
しかし、建設的な議論はそれほど面白くない。対立は人々を陶酔させる麻薬のような効果があるからだ。このブログでさえも他罰的な文章を書くとアクセスが伸びるくらいなので、経済的な要求のあるテレビや新聞などが他罰的で劇場型の報道に傾くのは無理がないだろうなあとは思う。
だが、いったん他罰型の統治機構を作ってしまうと、それに純化した人しか残らないので、いざ実務的な何かをしようと考えても、それを実行することができない組織ができてしまう。多分、安倍政権が増長する裏には、有権者の「他人を罰したい」というニーズがあるのではないだろうか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。