ベッセント財務長官が対中関税戦争は激化しないと発言し株価が反発していたが、トランプ大統領が同調したことでさらに株価が上がった。特に何かの交渉が進展しているわけではないのだが希望的観測にすがりたいと考えるのが今の投資家心理だ。
内容を文化的に整理するとアメリカ合衆国が一転して中国に擦り寄る可能性も否定できない。おそらく政治家を含めた日本人はこの状況に対応できないだろうが、米露中が国連安保理を無視して新しい世界秩序について対話するという状況も起こり得るのかもしれない。
きっかけはベッセント財務長官の「米中貿易戦争は持続可能ではない」という発言だった。しかし同時に「中国はSlogだ」と発言したとも伝わっている。「とぼとぼと」という意味の単語だそうだ。
“I do say China is going to be a slog in terms of the negotiations,” Bessent said according to a transcript obtained by The Associated Press. “Neither side thinks the status quo is sustainable.”
US Treasury secretary says trade war with China is not ‘sustainable’(AP)
記者はこのSlog発言を取り上げ「習近平国家主席と話ができているのか」とトランプ大統領に問いかけた。その答えが「交渉にさえ応じてくれれば対中関税は大きく下がる」だった。トランプ大統領は交渉の天才で手の内を明かさない「狂人戦略の使い手」とされてきた。だが、中国に対しては早々と手の内を明かしてしまったのだ。
中国の「交渉に応じない」戦略が当たっているといえるだろう。
結果的にニューヨークの株式市場は大幅続伸した。トランプ大統領は投資家心理を目の当たりにすることとなり中国に対して厳しい対応を続けるのが難しくなりつつある。
とはいえ、ベッセント財務長官によれば、トランプ大統領から具体的な指示は出ていないという。つまり実際には何も変わっていない。にもかかわらず株式市場が大きく変動したということは、投資家は今でもアメリカ合衆国の経済にすがりたいという気持ちが強いことになる。他に魅力的な代替選択肢が見当たらないのである。
今回の一連の出来事を我々はどう捉えるべきか。
アメリカ合衆国には闘争を激化させる意思はないものの表向きは中国から妥協を引き出したという見せ方をしたい。しかし習近平国家主席はメンツを非常に気にする政治家であり、さらに党内基盤に少し翳りも見えるようだ。仮に習近平国家主席が「弱気なところは見せられない」と判断すると結果的に米中貿易戦争は長引くのかもしれない。
さらにベッセント財務長官には同盟国への高関税を阻止するために「中国悪玉論」を強調しすぎたという反省も生まれていることだろう。IMFや世界銀行に矛先を向けており同じような攻撃が日本に向かう可能性も否定できない。
ベッセント氏とトランプ氏の行動原理の違いを理解することは極めて重要だ。
ベッセント財務長官は実利的な理由から為替に強い関心を持っている。
ベッセント氏は「ウォール・ストリートが勝ちすぎる状態」が続けば中流アメリカ人が不満を募らせて民主主義が破壊され結果的にウォール・ストリートも瓦解すると考えているのではないかと思う。
議会でも富裕層を増税すべきだという議論が出ており「勝ちすぎ」に対する危機意識が広がっているが議会交渉は遅々として進んでいない。そこで為替を幾分ドル安にしたい。日本との交渉では「金融正常化」を通じて1ドル100円から120円程度に誘導したいのではないかとされている。
しかしながら日本などと個別に交渉をしてもアメリカ合衆国の交易条件が劇的に改善されるわけではない。そのためには中国に掛け合って人民元安を止める必要がありIMFや世界銀行がその役割を果たすべきではないかと主張しているのである。
IMFについて同氏は「IMFを再びIMFに戻さなくてはならない」と語り、IMFの本来の使命には「競争的な為替レート切り下げのような有害な政策」を抑制し、「均衡の取れた国際貿易の成長」を促進することなどが含まれていると指摘した。
ベッセント米財務長官、IMFや世銀は「使命」を果たしていない(Bloomberg)
世銀については「リソースを可能な限り効率的かつ効果的に活用する必要がある」とし、「世界2位の経済大国である中国を『発展途上国』として扱うのは荒唐無稽だ」と切り捨てた。
ベッセント米財務長官、IMFや世銀は「使命」を果たしていない(Bloomberg)
党首討論を見る限り日本の政治家は今回の問題について「みてみぬふり」をしており、現実的な対応は難しいだろう。コメなどで妥協すべきという意見も出ているそうだが江藤農水大臣が抵抗している。ただベッセント氏が日本に通貨交渉を持ちかけたとしてもそれは「日本は応じたのに中国は応じない」と示したいだけという可能性がある。ある意味、日本はベッセント氏の練習台になっているにすぎない。
ベッセント氏の発言は技術的に分析が可能だがトランプ大統領はそうでない。これが今回の最も厄介なところだろう。
先日別のエントリーでエマニュエル・トッド氏の主張を引用した。欧米のプロテスタンティズムが堕落したことで相対的に権威主義の価値が上がったという主張だった。
トッド氏は「欧米はロシアと敵対し続けるだろう」と予想していたが、計算外のことが起きている。アメリカ合衆国の内部では文化的錯乱が起きており「海洋国家から大陸国家へ」「自由主義国家から権威主義国家へ」という主張が生まれている。アメリカ人は「回復」を期待しているが、そもそも自分達が何だったのかを思い出せずにいる。トッド氏によるとそれはプロテスタンティズムだが、アメリカ人はそれを自覚できていないということだ。
アメリカ合衆国には権威主義国家が成立する文化的土壌はないため結果的にこの主張はアメリカの内部に大きな混乱を生み出す。実際に権威主義への抵抗とまとまりのない政権幹部の万人闘争が起きており、すでに混乱は始まっていると言ってよい。
ただ、社会学的理解が乏しいトランプ大統領は「アメリカが権威主義化すればいまよりまとまった国になる」と考え始めている。そして明らかに「良かれ」と思って行動している。結果的にこれがプーチン大統領に対する憎しみから憧憬に大きく変化する土壌になった。
プーチン大統領はオリガルヒであるトランプ氏や側近の取り込みに成功しており、現在の戦闘ラインを維持した上で(つまりクルスク州を奪還し東部4州の大半を維持した時点で)戦闘を集結させてもいいとトランプ大統領に申し入れている。
ここから類推すると中国に対しても同じような変転が起きかねないということになる。
今は激しく対立しているがそのうちにトランプ大統領が習近平国家主席を極端に称賛するという世界だ。日本や台湾の頭越しに極東政策が決まるという世界だが、おそらく変化を拒み見て見ぬ振りをする傾向が強い日本人は対処できないだろう。
トランプ氏は、記者から習氏との会談を検討しているかと質問を受け、「もちろんだ。彼は友人だし、私は彼が好きだ」と答えた。
トランプ氏、習主席との会談に意欲 米中間の緊張高まるなか(CNN)