立花孝志氏が竹内英明元兵庫県議会議員に対する指摘の一部を撤回し謝罪した。背景には警察の異例のメッセージ発信があったようだ。
今回の一連の事象を見て「なぜ立花孝志氏に惹き付けられる人がいるのだろう」ということが気になった。Quoraでの深堀りを通じてその理由の一端が浮かび上がった。
ヒントになったのは箕輪厚介氏が提唱し岡田斗司夫氏が取り上げた「承認格差」だ。複雑化するSNSの議論について行けない人達がいる。
今回の結論は仮説に過ぎないが「我々がフェイクニュースに対してどのような対策を打ち出すべきか」のヒントは得られたと感じる。ただし、対策にはXのような短文投稿サイトではなくまとまった文章が書けるSNSが必要である。
立花孝志氏が竹内英明元兵庫県議会議員に対する指摘の一部を撤回し謝罪した。SNSの求めに応じて「オールドメディア」と呼ばれるテレビ局と新聞社が警察署に取材をした。これがファクトチェックとして機能。また死者に対する虚偽の情報拡散は名誉毀損に当たるという指摘も出されていた。社会の組織的な対応が有効に機能したと言ってよい。
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問題はなぜ立花孝志氏の発言に引き寄せられる人がいるかである。Quoraで強力に立花発言を擁護する人がいたので「取材」をしてみた。
まず「オールドメディアの偏り」について懸念を持っている人たちは一定数いるということがわかった。ところがこの中に「一部特異な人」がいて攻撃的な擁護を仕掛けてくる。扁桃体に直接作用する怖さがあり「痛み」を感じる。実に威圧的なのだ。
この痛みに抗って「攻撃と主張を分けるように」伝えたところ主張を書いてきたが。だが論理的な構成がなく「意味がわからない」という印象だけが残った。
ここから第一の仮説が生まれた。人間は子どもの頃に社会性を獲得する。これは自転車を覚えるようなものだ。遺伝的な気質(先天性)と社会的訓練(後天性)の掛け合わせになっている。
コメント欄では「察し合う優しい文化」と「ぶつかり合いながら社会性を磨いてゆく文化」の違いがあるのだろうという指摘があった。これは西洋型の「主張するスキル」に着目している。「なるほどそうなのか」とその時点では思った。
YouTubeを見ていると岡田斗司夫氏が「承認格差」について扱っているのを見つけた。もともとは箕輪厚介さんの発案らしいが、岡田さんは「俺は面白いと思う」とかなり興奮していた。と同時に「面倒くさい話題でもある」と言っている。先天的気質と社会クラスの問題を扱っているため、即差別案件になるとわかっているのかもしれない。いずれにせよ「いいね・高評価」の時代には「社会的承認を得る力」は重要なスキルだろう。
編集者の病(やまい)が抜けない箕輪厚介さんは「承認欲求」と「格差」というキーワードが直感的に読者に刺さると見抜いているのだろう。いとも簡単に大衆を動かせてしまうことに近年の箕輪さんは複雑な感情を持っていると髙橋弘樹氏に語っているのを見たことがある。
差別と大衆扇動という要因をはらみながらも、指摘としては純粋に興味深い。つまり西洋(特にアメリカ合衆国)では主義主張を伝えるという能動的な側面が強調されるが、日本のような受動的な文化ではSNSで承認が得られないことが問題になるということがわかるからだ。
岡田斗司夫氏は脳機能障害を負った人が「自分がかって取材した社会生活に適応できない人と同じ境遇になった」というエピソードを紹介している。つまり、複雑化したSNS社会に適応できず「みんながいとも簡単に得ている承認が得られない」人が増えているという指摘と捉えることができる。
周りの人は自転車に乗れるのに自分だけは自転車に乗れない。おとなになって自転車を練習しようにも回りにぶつかってしまう。これは確かに苦痛な体験だろう。多くの人は自転車に乗ることを諦めてしまうのだろうが、中には「当たり屋」になってしまう人もいるということになる。
では実際に立花孝志氏の支持者はどのような人たちなのか。以前、日経新聞の記事を紹介したことがある、
日本で終身雇用が崩れると帰属意識を持てない人が増えてゆく。この人たちはやがて「日本」という幻想の帰属意識を身につける。ところがこの「日本」という仮初(かりそめ)の帰属集団が成り立つためには「反日」という存在と「日本を象徴する人物」が必要だった。それが安倍晋三総理大臣だった。
安倍総理が亡くなってしまうと「日本」は核を失いネトウヨと呼ばれる人たちは帰属集団をなくす。このうちの一部が「内なる敵(Enemy Within)」を見つけて団結したのではないかという仮説を立てることができる。
付け加えるならば安倍総理のいた時代のSNSに比べると今のSNS事情は格段に複雑化している。様々なソーシャルスキルを駆使して承認を得ることに経済的価値が認められている。また公共空間(レストランや電車の中など)を見ると誰もがスマホに目を落としており「友達との会話」に乗り遅れないように必死になっている。うららかな天気であっても「ああ今日はいい天気だなあ」と外をぼーっと眺めるようなことはない。
これは「自転車に乗れない」人にとってはかなり過酷な体験だろう。
兵庫県知事選挙において「立花孝志氏の支持者」「陰謀論者」は普通の市民との間に接点を持っていなかったことから孤立しやすい集団であるという仮説を立てることができる。しかし自民党支持者とは近接している。自民党支持者は普通の市民と近接しているため自民党支持者を通じて一般に立花氏の主張が伝わったことがわかっている。
実際に立花孝志氏に傾倒する人や自らを陰謀論者だと主張する人に「自身を説明させる文章」を書かせてみると暗闇か沼に吸い込まれそうな気分になる。なんとなく独自の論理がありそうなのでそれを理解しようとするのだが結局それがなんなのかよくわからないのだ。
だが、これらの情報を考え合わせるとそもそも「その界隈の人達」の情報理解をありのままに反映していると考えることができる。わざと虚偽の説明をして聞いている人を沼に引きずり込もうとしているわけではなく、そもそも溺れているので長い時間関わると聞いている人の神経がおかしくなってしまう。酔ってしまうのだ。ただ対話している人がどんな状態にあるかを理解するためにはXのような短文サイトは使えない。もっと長い文章が書けるSNSが必要だろう。
真面目で非伝統的な政治家が敵との対話を通じて精神的なバランスを崩していった事例としては水道橋博士氏が思い浮かぶ。
となると「まずかかわらない」「無理に理解しようと務めない」ことが現実的な対応策であり防御策であるということになる。例えて言えば「ミノムシ」のようなものだ。脆弱な思想を保護するために「事実」を積み上げてゆくがそこには論理的な一貫性はない。彼らが「事実」と考えるものの寄せ集めに過ぎないので、箇条書きではなく単なる論理性のない寄せ集めになってしまう。ただしXはそもそも「ミノムシ型」だ。
おそらく避けるべきことは彼らとそもそも「事実を巡る争い」を行わないことなのではないかと感じる。
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