当ブログでは、アメリカでCEO殺人のルイジ・マンジョーネ容疑者が一部でセレブ扱いされているというニュースを連日お伝えしている。1999年の映画「ファイト・クラブ」を想起させるような現象だ。システムが自分たちのためにならない場合はそれを暴力的な手段を用いて「変革してもいい」という意識の表れである。民主主義にて期待するようにも見えるが、そもそも革命から始まった民主主義の中に組込まれた原初的な欲求であるとも言えるだろう。
映画「ファイト・クラブ」はつまらない日常を送る「僕」がタイラー・ダーデンという理想の男に出会うところから始まる。やがて「2人」はファイト・クラブという秘密の地下組織を作るが、最終的に資本主義システムの破壊(プロジェクト・メイヘム=騒乱計画)を目指すようになる。
その中に「He has a name. His name, was Robert Paulson」という印象的な台詞がある。ファイト・クラブでは全ての人々は名前を持たないが戦いの犠牲者には名前がつく。そしてクラブの人々はその名前をチャントし英雄として祭り上げるのだ。「彼には名前がある。彼の名前はロバート・ポールソンだった。」としてその名前を心に刻むのだ。
残忍な殺人容疑者のルイジ・マンジョーネ(Luigi Mangione)が一部から英雄視される理由は複数あるだろう。
第一に「犯人らしくない・スター性のある」ルックスが挙げられる。おそらく彼が中東系やアフリカ系であればこれほどのスターだとはみなされなかったのではないか。26歳で腹筋が割れたイケメン。工学部のマスター学位を持ち実家は裕福だ。また殺人現場の様子も記録されている。自家製と見られる拳銃がスタックしたが冷静に引き金を引いて逃げている。ビジネス・インサイダーの日本語版が人となりを特集している。
このルックスに加えて、複雑化する医療保険に対する敵意も盛り上がりの要因になっている。医療保険に対して「どこか間違っている」と感じる人もいただろうが、それだけではなく「今の社会の仕組みは自分たちのためになっていないのではないか」という気持ちを持った人も少なからずいるかも知れない。
こうした気持ちは普段は共有されない。何かの事件をきっかけにして「実は同じような感情を持っていたのは自分だけではなかった」と気がついたときに爆発的に燃え上がることになる。アメリカの治安当局は1月6日の議会襲撃をさほど問題視しない有権者たちがルイジ・マンジョーネ容疑者を英雄視するのを見て懸念を強めている。
BBCは「レイリ・ベイト」によりお金儲けをする人たちを特集している。レイジは怒りでベイトは撒き餌という意味。SNSは強い感情をお金に変換する仕組みを作ったがそれは必ずしもポジティブな感情である必要はない。むしろ苛立ちが抑え込まれれば抑え込まれるほど「強い商品価値」を生み出す。
先日、水戸黄門現象について書いたところ「必殺仕事人」について言及したコメントがあった。1979年から1980年頃にかけて「非合法な手段を使って社会矛盾を解消してもいいのではないか?」と考える人達が出てきた。
水戸黄門世代の人々は社会に対する権利意識が希薄なため「庶民はお上に対抗できない」と考えている。ところが経済的に自信をつけると中には「自分たちのためにならない社会制度は打倒しても構わないのではないか」と考える人が出てくる。日本ではこれがテレビに出てくるほど一般化したのが1970年代の終りから1980年代初頭だったことになる。
現代もてはやされるのは「異世界転生モノ」だろう。もはや社会制度が変革できるとは誰も思っていない、才能のない自分たちがいくら努力しても無駄と考える人は生まれ変わりに期待するしかない。
アメリカ合衆国は経済的には好調であり「革命国家」の国民は強い主権者意識を持っている。このため「非合法的手段であっても社会が変革できるならそれで良いではないか」と考える人達がトランプ大統領を生み出した。
そのトランプ次期大統領はインタビューの中で言葉を濁すシーンが増えている。例えば「物価高」についての発言が揺れている。おそらく彼は経済の仕組みがよくわかっておらずそれを理解するつもりもない。このため明確に物価を下げるとは言えなくなっているのだ。仮にトランプ次期大統領の政策がさらなるインフレを招けば権利意識が強くなおかつ倫理を重要視しなくなったトランプ大統領は攻撃する側から攻撃される側に回ることになるだろう。
日本の政治はSNS言論を敵と見なし規制によって分離を図ろうとしている。だがおそらくこの試みは失敗するだろう。政治はすでにSNSに飲み込まれつつある。また仮に政治がSNSを抑え込めば抑え込むほど「社会に対する怒り」に強い商品価値が生まれる。